(前回
生きていきたいという根拠のない気持ちは、根拠のある感覚のせい - 十二因縁(10) から続く)
生きていきたいと言っても、結局は、眼で見たい、耳で聞きたいだけの話ですけど。
無知だから、それは生きていきたいということだと、さらに解説する。間違った解説をするんです。それが執着ということにするんです。
渇愛から執着から生まれる。
といっても、本当は無明の中に渇愛がいたんですよ。
いたんだけど、今度は無視できない働きをするんですね。渇愛が新たにエネルギーをもらってどんどん生まれるところですから、渇愛が新たに生まれるところで渇愛にラベルを貼っておく。
そこで、もともと生きていきたいという気持ちがあったんですよ。
しかし、今、はっきりと執着が生まれて、もう生きていきますよと生きていればおいしいものは食えるし、美しいものは見えるし、音楽は聞こえるし、とかね。
遊びにも出られるし、といろんな理由を言うんです。くだらない理由を。
そこで存在欲が新たなエネルギーをもらって、成長するセクションだから、そちらでウパーダーナ(upādāna=固執)という言葉を使うんです。
そうなってくると、頑張っているんだから、存在が続くんです。
存在が続くための、条件がそろったんです。それをバワ(bhava=有)というんです。
生き続けるための条件が揃っちゃったんです。執着が生まれて。
これって全体的な存在からみると、すごいエネルギーなんですね。
ただちっぽけな自分の命からみると、この肉体は壊れますよ。でもこれは今すぐあらわれたものじゃないんだから、かなり前からあらわれたエネルギーですから、これでまた新たな体を作るエネルギーができちゃったんです。
そこで、バワパッチャヤージャティ(bhavapaccayā jātii)= 新たに生まれる。
死んだら生まれるし、死ななくても、新たに生まれるんです。
だから多次元なんです、いつでも、因果法則は。
今もわれわれは、執着から新たに身体を作っているんです。
身体にすごい執着があるんだから、いろんな身体の調整をして生きていますよ。体はすぐに壊れるものなんです。なんで壊れないんですか? 維持しています、壊れないように。
そこは意思的でも、無意識的でも起きているんです。
細胞たちが、死ぬんだけど悔しいんです。だから部品をリサイクルして新たな細胞を作るんです。
そういうことで、今もわれわれは転生しつつ、なんです。
そこで派手に肉体がストップしちゃうと、新たにライフがスタートするんです。
それは一番小さいところからスタートするんだから、人間の浅はかな智慧では発見できんですね。
そういうことで、輪廻転生まで説明しますよ。この一次元論で語っている因果法則で。
これは一次元論ではありませんよ、というところはすごく気をつけなくちゃいけないし、十二因縁の一個の法則でも、全体的に体がなければ成り立たないんです。
理解したいなという方は、一次元論で理解するんです。
が、その理解では決して十分でありません。
解脱に達する目的で説かれているんだから、学者の遊びのために説かれているものではないし、学者には因果法則で遊べる能力はまるっきりないし、因果法則に対して書いてあるテキストのほとんどはちんぷんかんぷんで、どうにもならんし、経典まで書いていますからね、大乗経典もありますけどね。
さっぱりわかっていないんですね、誰一人も。わかった気配すらない。
パーリ経典以外はないんです。
(続きます
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話(197) 食事と解脱の関係
仏教の因果法則では、因があって果が起こると言います。因果法則がこれだけなら、一個の出来事でものごとは終わるはずです。
膨らんだ風船が原因だとすると、音を発して割れることは結果になるのです。風船が割れたら、因果関係は終了です。このように考えられますが、本当の因果法則は少々違うはたらきをするのです。
記号で言うならば、aが原因でbが生じる。次、bが原因でcが生じるのです。ということは、bが果でありながら、因にもなるのです。ですから次、cを原因にしてdが生じるのです。
これで終わりの見えない無限のサイクル・転回が現れてくるのです。
こころの場合は、滅が原因で生が起こるのです。次、生が原因で滅が起こるのです。それで、生→滅→生→滅→生→滅の転回が現れてくるのです。
識という栄養は、このはたらきのことです。
この法則によって、人の肉体が滅びたところで、すべて終わってしまうことは不可能になります。死ぬ瞬間で、この肉体の中で最期の認識が生まれて、消えるのです。この肉体の中で、新たな認識が起きない条件になっているのです。
しかし、肉体と別に識を観察すると、識が滅したのです。因果法則によって、必ず新たな識が生じなくてはならないのです。
ですから、滅した瞬間で、新たな認識が起こるのです。
それが仏教の説明する「輪廻」というはたらきです。