ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

無我がわかりません

質問

「無我がわかりません」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

わからなくていいんです。

その気持ちで結構ですよ、冥想するならばね。

 

無我がわからないというけれど、「自我」がわかりますかね?

自我ならわかりますよ、と言える?

 

だから無我がわからないと言っても、本当は自我もわからないでしょう?

そこでヴィパッサナー実践をするんです。「一体どうなっているのか?」とみればいいんです。

 

無我っていうのは、「わからない」というのが決して変ではなく、これは事実です。

無我がわかった時点でもう覚っています。覚りに達していなければ無我がわかっていないんです。だからそれを困る必要はありません。わからないものは頑張ってわかるようにするということです。そこを無理してはいけません。妄想してはいけません。

 

ただ単に、実践をしていると真理が出てきます。

真理が確認作業によって現れてきたら、それは本物です。考えて発見したらそれは本物ではない。

 

妄想だけじゃなくて思考さえも抑えて、確認していくんです。

思考は切るということはありえないから、抑えて、あまり頼りにしない。それで確認作業を続けていきます。

 

それで真理のありのままの姿がどんどん見えてくると、自我っていうものが存在しないと発見します。自我が存在しないと発見したことが無我ないんです。

 

無我より先に自我にいかなくちゃいけないでしょう?

それで、性格的に「無我を発見してやるぞ」と思って冥想してもできない可能性があります。だから、無我に挑戦するのはまれな人間だけなんです。

 

無常に挑戦するんです。

100人が修行するなら、無常に挑戦して覚る人々は95人くらいでしょう。苦もありますが、無常のほうが、たくさんの人々のわかりやすいんですね。

 

無我が宿題になるのはまれな人です。

 

とにかく、苦・無常・無我は同義語なんです。

だからわかりやすい無常をなんとか念頭に入れて冥想したほうが、かなりスピーディに成長します。

 

誰かが「無常を発見しました」と言えば、同じ意味で「無我も発見した」ということなんです。

 

定義的に言えば、” 我 ”とは、「永遠不滅の何かがある」ということです。

無常というのは、「すべての現象は変化するんだ」と。二つは同じことです。

 

誰にでもわかりやすい「無常」を宿題にしてください。無我ではなくて。

(終わり)

 

関西月例冥想会 2016.09.17 法話めもより

 

Voyage of the Emerald Buddha (Images of Asia)

 

『お知らせ』:

アマゾンの「アラナ精舎(カティナ衣法要お布施)リスト」Amazon.co.jp は、本日(10/17)が最終日です。

善行為をなさった皆さまに、敬意とともに随喜させていただきます。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

なお、上記のお布施リストは今日一杯で終了しますが、アラナ精舎では10/23(日)のカティナ衣法要当日の朝までお布施を受け付けているそうです。

アラナ精舎【カティナ衣法要】について(外部サイト):

https://www.facebook.com/jtheravada/videos/1160250384036829/