ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

2022年1月号 智慧の扉 すべての問題を解く鍵

(この記事はスマナサーラ長老の法話を編集させていただいたものです。2022年1月号パティパダーに掲載されました。ここでは許可を得て転載いたします)

 

智慧の扉

すべての問題を解く鍵

 

 人生にはいろいろな問題が起こります。

しかし、どんな問題にも乗り越える方法があるのだと仏教は言います。なぜならば、いかなる問題も原因があって現れたものだからです。その原因を調整すれば、結果を変えることが可能になります。原因がわからない、どうしてこんな問題が起きたのか見当もつかないという人には、問題から抜け出す方法がありません。つまり、「原因から結果への流れを知っているならば、問題を乗り越える方法が成り立つ」のです。

 

 人生を全体的に観ると、問題は一つだけではありません。

我々はいろいろな形の網に引っ掛かって苦しんでいるのです。家族の問題など日常のトラブルならば、仏教を持ち出さなくとも誰にでも解決可能でしょう。仏教では、より根深い精神的な問題に焦点を当てるのです。例えば、生命が何かを認識する、という時点でもう問題が起きています。生命は、眼耳鼻舌身意という六つの網に引っ掛かって欲・怒り・怨み・憎しみ・嫉妬・焦り・落ち込み・後悔などの問題を作るのです。そのような認識レベルの問題を無くすことは、仏教の管轄範囲です。

 

もう少し俯瞰して考えてみましょう。

例えば老いることは問題です。身体が衰えることが愉快なわけありませんね。病気になることも問題です。生命は遺伝子でできているので、どうしても病気に罹るシステムなのです。さらに言えば、死ぬことも大きな問題です。どんな学問知識をもってしても、これらを避けることはできません。

 

仏教の真骨頂は、この老病死という問題に解決方法を示していることです。

仏教には解くことができない問題はない、と獅子吼される由縁はそこにあります。いわゆる生老病死が成り立つのは、生きているからこそです。生命=生老病死なので、その問題を解決しようとすれば、生き続けるカラクリ=輪廻をストップすることがどうしても必要なのです。

 

私たちは、なぜ生きたいのでしょうか? 

データを取りながら「生きること」の内実をよくよく調べると、まったく碌なものではないとわかります。それは苦から苦への連鎖に過ぎません。「生きたい」とは、言葉を変えると「苦しみたい」と同義であると、まず発見するのです。苦しみたいと願っているのに、いざ苦しみに陥ると泣き叫ぶ。これは仏教から見ればあまりにも馬鹿らしいプログラムです。

 

そこで、「生命はなぜ生き続けたいと願うのか?」と調べると、結局わけもわからず生きたがっていることを発見します。

その闇雲な衝動を「渇愛」と呼ぶのです。なんだ、簡単ではないかと思うかも知れませんが、実際に渇愛を発見するためには、鋭い理性が欠かせません。生きていきたいというならば、それには理由があるはずです。それを各自が自己観察して調べなくてはいけないのです。

 

 渇愛を発見した人は、同時に「渇愛を無くすこと」という解決の鍵を手にします。

解決する具体的な方法は八正道です。八正道を歩む人は、輪廻という苦しみの仕組みから抜け出ます。生命が抱えるすべての問題は、そこで終結を迎えるのです。

(了)