ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2024年4月号初期仏教のエッセンス 誤解だらけの輪廻転生 初めて語られる地獄と天界の心理学 アルボムッレ・スマナサーラ長老

 仏教文化では「地獄に落ちると、極寒や灼熱の環境で、舌を抜かれたり鬼に殴られたりなどの拷問のような目にあう」というふうに地獄を語ることがあります。仏教経典でも地獄のような「不幸な次元がある」と説明されています。ただしこの「地獄」が、鬼がいたり炎で焼かれたりする世界かというと、実際はよくわかりません。このような地獄の物語からは、人に悪行為を恐れさせて善行為を促したいという作者の狙いが読み取れます。しかし、昔の人々が精一杯努力して「恐ろしい地獄絵図」を伝承してきたのに、人間は悪を犯すことをなかなかやめようとはしません。「たとえ地獄で舌を抜かれたとしても肉体の苦痛だけだから、たいしたことはないのではないか」という考えも出てくるほどです。しかし地獄とは、輪廻転生とは、それほど単純な問題ではないのです。

 

心が回転するということは、輪廻転生するということ

生命が輪廻転生するときは、肉体を伴いません。身体ではなく、心の流れがひたすら続くのです。心が流れる場所については、心自体が選択します。死にゆく心が、次に回転できる適切な場所を自ら選び取るのです。たとえ望まない場所であっても、心の因果法則によって然るべき場所が決まってしまいます。それは、りんごの実が熟せば自然に地面へ落ちる様子と同じです。リンゴが完熟になったところで、「では、土の上に落ちてやろうかな」とリンゴ自身が決めるわけではないのです。タンポポなど空に種を飛ばす植物にしても、「よし、飛ぼう」と、その時期を決定するのではなく、種が育った頃に風が吹くと、自然に綿の部分が風をつかんで、本体から外れて飛んでいってしまうのです。タンポポに「飛びたい」という希望があろうがなかろうが関係なく、因果法則で種がいずこへと運ばれます。人間が死ぬときも同じです。心が死ぬ時点の因果法則によって、次の場所に移って認識の回転が始まります。一般的に認識というと、我々は概念や言葉を使うものだと捉えていますが、認識とはもっと僅かで微細なものです。その細かな認識の波が次第に大きくなると、思考と呼ばれるようになります。これは実際に、自分の心をチェックするとわかるはずです。例えばミーティングで「あなたどう思いますか?」と質問されると、大抵の人々はその瞬間に自分の中で結論が出ています。ただ、その結論を言葉に乗せるために、「えーと、えーと」と言いながら頭の中で言葉を選ぶ時間をかけてしまうのです。ほとんどの場合、心は瞬時に回転するので、認識も同様に瞬間で回転しています。それは言葉や概念が現れる回転スピードよりもすばやいのです。つまり認識は、何か考える前に回転し終えています。外部へ発信するときは、その回転の後で認識を言葉に変換しています。死の間際の人々にも心の回転があって、認識は起きていますが、それを概念にする余裕はありません。だから、「何も考えていない」と言えるのです。このように心が回転するプロセスの中で、次に心がおもむくステージ(場所)が現れてきます。

 

幸か不幸かは自己判断

天国と地獄などの物語は、人間の世界観で作られています。「天国は幸福で楽を享受し、地獄は不幸で苦しみを味わう」というふうに世界を分けるのです。しかし実際のところ、「幸か不幸か」というのは自分の判断によって決まります。例えば、苦しみを感じる過程を考えてみましょう。自分がいろいろなことに期待があるのに、何一つもその通りに行かないばかりか真逆の結果になるとします。これが耐えられない苦しみになるのです。例えば、オリンピックという晴れの舞台で、マラソンレースを走り出した途端に足を挫いてしまったらどうでしょうか? 激しい出場権争いを勝ち取ったのに、入賞どころか完走もできず棄権することになってしまったら……。耐えられない辛さを感じるでしょう。足を挫いた痛みよりも、自分が期待した結果が全く叶えられなかったことが苦しいのです。同じようなことは、人間の社会で日常的に起こっています。ある日、健康診断の結果がんが見つかったとしたら、恐怖や苦しみを感じます。自分は不幸だと嘆くのです。その不幸を感じたのは、自分が日頃から「私は健康であり続けたい」という期待を持って生きていたからこそです。持っていた期待が潰れなければ、「健康ではなくなった状態」に不幸を感じることはできない。つまり、期待や欲望の有無によって、幸か不幸かが決まるのです。もし何か期待が実現したら、みんな舞い上がって喜んでしまいます。一般的には、その状態を「幸福」と考えます。このように、幸福か不幸かを決定するのは、心の法則だと言えるのです。同じように、輪廻転生にも心の法則が関係しています。

 

「期待」という地獄の始まり

地獄という次元の生命体は、多くのことを期待しています。しかし、期待すればするほど反対の結果が起こるのです。反対の結果になると、さらに「次こそは!」という期待が強くなります。けれども期待はまたもや叶わない。そうすると余計に失望感が強くなる……。そんな悪循環に陥ります。また、地獄の生命は「何か食べたいなぁ」と希望しても全く食べ物が手に入らないのです。今度は「疲れた。ちょっと寝たいなぁ」と思うと、身体中が燃えあがって火傷を負い、睡眠どころではなくなってしまいます。あるいは、「今は寝たくない」と思うならば、逆に麻酔をかけたような感じで昏睡状態になってしまう。このように、地獄の生命には、とにかく期待とは反対のことが起こるのです。やがてその不幸な次元の生命が心の法則に気づいて、「あ、なるほど。これは期待があるから失望するのだ。もう何も期待しません」と諦めたならば、不幸を感じる次元の一生を終えます。ただし、生命が心の法則に気づくことはそう簡単ではありません。だからこそ「地獄に落ちた生命が、その次元から抜け出すことは非常に難しいことである」と説かれているのです。

 

エネルギー切れで地獄を脱出する方法

心の法則に気づくパターンの他に、エネルギー切れで地獄から抜け出すケースもあります。期待を作るのは自分の過去の業なので、その業のエネルギーが減ってくると、その生命体は期待することを諦めるに至ります。再び地獄のストーリーに戻って説明しましょう。地獄の生命が、途方もなく長い間苦しんでいるとします。ある日地獄の鬼たちがいつも通りやって来て、「お前の首を切る時間だよ」と恐ろしいことを言う。いつもなら恐怖で泣き喚いていたのに、ふと自分の心に諦めが生じていることを感じるのです。すると、「首を切るの? ああ、そう。どうぞ好きにしてください」と本心から答えることができます。その瞬間に、その生命に地獄が消えてなくなってしまうのです。

 

四聖諦から解き明かす地獄とは

昔の人々が考えた「地獄物語」を読むと、肉体に執着がある人間なら恐怖を感じます。しかし、今まさに地獄にいる生命に「あなた、地獄は楽しいですか?」と尋ねたらどういう答えが返ってくるでしょうか? 地獄に落ちた生命もまた、自分の命に執着や愛着を作ります。地獄の生命でさえも、「ああ、生きてきてよかった」と思うのです。これはブッダが四聖諦の教えの中で説明しています。

「Yāyaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatra tatrābhinandinī【ヤーヤン タンハー ポーノーバヴィカー ナンディラーガサハガター タトゥラ タトゥラービナンディニー】渇愛が輪廻転生を作り、渇愛によって、「ああ、良いなぁ」という欲も生まれてくるのだ」と。Tatra tatrābhinandinī 【タトゥラ タトゥラービナンディニー】というのは、その場その場で、生命は喜びや満足を感じるという意味です。たとえば「人間に生まれて良かった」と皆さんは思っているでしょう? また女性は「女に生まれて良かった」と思い、男性は「男で良かった」と思っています。猫だって「猫に生まれて良かった」と思っているはずです。同様に、地獄に落ちた生命であっても「ここに生まれて良かった」と思っているのです。そうでなければ、「ああ、生きるということは、何て苦しいことか」と、地獄での命を、つまり地獄で生きていきたいという生存欲を捨てるはずなのです。それができるなら、「最も涅槃に入りやすく覚りやすい次元は地獄」ということになります。地獄には何一つも良いことが無く、「苦」のみがあります。それなのに、地獄に落ちる生命は解脱しないのです。ということは、もしかすると我々人間よりも、地獄に落ちた生命たちのほうが、生きることに喜んで執着しているのかも知れません。その執着でさらに苦が増す、というループにはまり込んでしまうのです。

 

執着が生む傲慢とは

では、人間はどうでしょうか? 人間として生まれたことにあまりにも執着して、「吾輩は偉い人物なのだ」と思っている人々は、どれほど自分に、他人に、社会に迷惑をかけていることでしょう。独裁者は自分に歯向かう人々を破滅に追い込んででも、自らの意思を突き通そうとします。そのような傲慢な気持ちも、自らの存在に強い愛着を持つゆえです。独裁者だけでなく、「自分こそが正しいのだ」自我を誇示して傲慢になる気持ちは、どんな生命にもあるものです。

 

心理学的な地獄のイメージとは

このように現実を分析してみると、伝統的に語られてきた地獄のイメージ(舌を抜かれる、釜で茹でられるなど)はもう少し合理的に刷新したほうが良いと思います。ブッダが説かれたとおり、生命には実に多様な次元があるのです。先ほど地獄を例に説明したように、たとえどれほどの苦痛を受けようとも、自分がいる世界に対しては愛着が生まれてしまうのです。その愛着ゆえに、少しでも長く同じ場所に留まり続けたいと願うようになります。その他にも、あらゆる希望や願望を作るのです。私たちも、「人間に生まれて良かった」と思うならば、この人生に限りなく希望や願望が湧き出てきます。「大金を稼ぎたい、美食を楽しみたい、美しい体でいたい」など欲望が止められません。一方、「まぁ、たまたま人間になったのだから、たいしたことはない」と思う人にとっては、人間としての境涯に、しがみつくほどの愛着は感じないのです。そのような視点で見ると、「地獄とは生まれた場所に強い愛着を持つ生命がいる次元である」と言うこともできます。「この場所でとことん楽しく生きよう」と、地獄の生命が希望する度に、正反対の結果が起こる。すると、人間なら耐えられないほどの苦痛を味わうことになるのです。それで「なんとか次こそ良いことが起こるはずだ」と希望を倍に膨らませる。しかし結果は願望と正反対になるので、期待が大きかった分、絶望感も甚だしくなるのです。この終わりのない期待と絶望の循環が地獄です。やがて生命自身が期待することを諦めたところで、ようやく地獄から抜け出せるのです。

 

天界とは何か

では、地獄の対極にあるとされる天界とはどんなところかというと、生命の希望通りに物事が運ぶ次元なのです。要するに、「ああ、失敗しちゃった」「はぁ、失望した」「こうなったら楽しいのに」と思うことがありません。そう思う暇すらないのです。たとえば、何か現象が起こるとそれが楽しくてたまらない。天界の生命はいつも楽しんで過ごすことになります。しかし次々に楽しい現象があるので、天界の生命は非常に忙しいのです。経典を読むと、お釈迦さまに会いに来た神々は、忙しくて仕方がない様子です。いろいろな楽しい用事があるので「早く帰らなくちゃ、早く帰らなくちゃ」と落ち着きなくソワソワしている。子供がゲーム中毒になっているような感じで、神々はさまざまな面白い現象に夢中になっているのです。遊ぶことがなかなかやめられない状態です。子供がゲームを一旦やめて、勉強や宿題に取り組むのは結構きついですね。それでも、勉強をやらなくてはいけないから、子供は仕方なくやります。そのような感じで、ある神々がお釈迦さまに会って質問した話が、経典に残っています。

天界という次元は、環境が自分に楽しみを限りなく与えてくれるのです。「あれ欲しい、これ欲しい」と期待する必要はありません。何かが欲しいと希望するためには、その何かが「無いので困っている」という状態が必要でしょう。「無いので困る」ということがなければ、欲しいと思う希望も生まれません。神々にとっては、何もかもが面白くて、「あれが無くて困ったな」と思い至らないのです。 相当面白い気分を味わうのだから、ただただふざけて生活しています。

 

天界の寿命とは

天界の生命の寿命について、仏典で明確に説明されています。長い間天界にいると、なんとなく面白くなくなって来てしまうのだ、と。面白くなくなったら、別なものが欲しいと願う能力も天界の生命には無いのです。なぜならば、気が狂うほど長い間、面白いものに囲まれて生活していたので、それ以外のイメージができなくなっているからです。「もう面白くないな」と思った途端、すぐに死ぬのです。ちなみに、天界では葬式がありません。遺体が無いからです。人間も死ぬときに肉体も消えてくれるならば、けっこう楽だとは思いますけど。

 

天界や地獄を心理学的に考察する

これまで説明したように、天界や地獄のストーリーは、心理学的に考えてみてください。「あれ欲しい、これ欲しい、 あれも無い、これも無い」と悩んで苦しんで人生を送っていると、その癖が死後、あなたをどんな次元へ連れていってしまうかわからないでしょう。「どうして私に財産が無いのか」などと、怒ったり嫉妬したりすると、これは悪行為になります。その悪業に引かれて、地獄に落ちるかもしれません。たとえば、「物を盗んだら地獄に落ちる」と昔から言われますが、「何であの人に財産が有って、私に無いのか」という心理も、盗む心理と同様になります。「私には財産がないなんて、到底納得できないから、他から盗んでも構わない」と考えるなら、その精神状態が地獄の生命と同じものです。仏教で「嘘をつくなよ、盗むなよ、殺生するなよ」などと強く戒めているのは、十悪(殺生、倫盗【ちゅうとう】、邪淫、妄語、悪口【あっく】、両舌、綺語、貪欲、瞋恚【しんい】、邪見)を犯すときの精神状態が、ひどい苦しみを引き起こすからなのです。

 

殺す時の心理状態とは

生命を殺すとき、殺す人が気持ちよく、良い気分でいるわけではありません。私はテレビで屠畜場や漁業の現場を見たことがありますが、人々が動物や魚を取って、仕分けて売っているとき、心から喜んで良い気分でいる表情を見つけることができませんでした。仕事でずっと同じ作業ばかりをやっているのだから、魚屋さんでは別に何のことなく魚を捌きます。例えば鰻屋さんで、生きている鰻を水槽から出して、鰻の頭にくぎを打ってスッと捌くでしょう。それは本人にとって楽しい作業でしょうか? 

YouTubeにはいろいろな動物の動画があるでしょう。私には、獲物を追いかけながらも、「なんで俺はこいつを食わなくちゃいけないのか」と疑問に思う、肉食動物の気持ちを感じ取れる時があります。肉食動物に捕まるのは、大人より捕まえやすい草食動物の子供が多いのです。ある動画で、ガゼルの子供を捕まえたヒョウが、首を傾げている様子を見ました。あまりにも小さいガゼルの子供を前にして「あれっ、何で私はこいつを食べなくてはいけないのか?」と考えているように見えたのです。ガゼルの子供も、ヒョウのことを全然怖がらないで 顔を向けて見ていました。「まぁ、しょうがない、喉を切って仕留めよう」という感じで、そのヒョウがガゼルの首に顔を近づけると、ガゼルが「何をするのか!」とでも言うように、ギャーと鳴く。それでヒョウが顔を引っ込めるのです。本当はガゼルの子供が鳴いても、ヒョウがひるむ必要はありません。相手は小さな子供なので体格差・力の差は歴然だからです。それなのに子供ガゼルの抵抗に反応したということは、ヒョウには他の理由で躊躇が生じていたのでしょう。長い時間にわたって撮影されたその動画からは、肉食動物でさえ、獲物を仕留めるときに何らかの逡巡がある様子が窺えました。

一方で、躊躇もなく殺生する人々の精神状態には、他の生命に対して「どうでもいいや」という考えがあります。すると輪廻転生の際、今度は自分が「お前の命はどうでもいいや」と扱われる環境に生まれやすくなってしまうのです。

 

畜生の世界はどうなっているのか

ガゼルとヒョウのお話をしましたが、畜生もまた地獄の一つの次元なのです。周りにいる動物を見てください。決して安穏や安らぎを感じて生きているわけではありません。常に「殺されるかも、殺されるかも」という恐怖感にさらされているのは尋常ではありません。リスが木の実を取ってかじった瞬間、カラスが飛んできて、リスの首筋を捉えて持ち去るかもしれません。木の実一つ安心して食べることもできないのです。草をはむ草食動物が「我々は誰にも迷惑をかけていないし、我々が草を食べることによって自然界は守られるのだ」と威張って生活しているでしょうか?

森の王様のような象は、他の動物に殺されるという恐れこそないですが、象たちには象たちの苦しみがあるのです。彼らは巨体なので大量の植物を食べなくてはいけません。それでも象は森を破壊しないように、枝を一つ取って食べると、先に進んで行って、また一本の枝を取って食べて、というように食事のために相当な距離を歩かなくてはいけないのです。象は木から枝をとって食べますが、象の出したフンから新たな植物の芽が出てきます。こうして象たちは、大量に枝や葉っぱを食べながらも、森を守っているのです。象は食べるものだけでなく、飲む水もたくさん必要です。森に住む象は、小象以外は基本的に横たわって寝ません。ほとんど立ったままで寝るそうです。大人の象は水に入る時くらいしか、横になることはないと言われています。その生き方は楽だと言えるでしょうか? もし赤ちゃんの象が横になって寝たならば、群れはどこにも動かないで、赤ちゃん象が起きるまで、じーっと待っています。えさは、その間取れなくなります。これはあくまで私が妄想した苦しみですが、動物の世界を観察しても、地獄の姿は見えてくると思います。

 

地獄の本質とは何か

これまで説明したように、地獄は心理学的な事象なのです。カエルはヘビに食べられるとき、苦しいという気持ちさえないかもしれません。一発で飲み込まれるのですから。しかし、カエルは生きている間、ずっとヘビに怯えずには生きられません。仏教では、天界と人間界を並べて「sugati【スガティ】良い生まれ」だとしています。大体同じ徳によって、天界に生まれることも人間界に生まれることも可能です。原始時代には、人間にも「肉食動物に殺される」という恐怖感が日常的にあったことでしょう。しかし今はもう、人間が日常生活で「殺される」と思うことは基本的にありません。ただし、世の中にはマフィアや独裁者、国家権力者など、常に「もしかしたら殺されるかもしれない」と怯えている人々もいます。それも地獄の心理状態です。したがって、彼らは地獄行きの予備軍と言えるでしょう。

 

肉体への執着を捨てたなら

現代では地獄のストーリーを受けて、「たとえ地獄で舌を抜かれたとしても肉体の苦痛だけだから、たいしたことはないのではないか」という考えもあると冒頭で述べました。その考え方に対するコメントをしておきたいと思います。

もし仮に、自分の肉体に執着がないならば、その人が地獄に落ちることは決してありません。なぜならば、肉体に対する執着を捨てることができたら、その人の心は清らかだからです。心が清らかになった生命は、もう地獄に行きたくても行けなくなります。地獄は、肉体に執着の無い生命がいく次元ではないのです。(了)

 

☆この記事はパティパダー2024年4月号に寄稿しました。