質問
「慈悲の瞑想を朝と夜しているのですが、呪文のように言っているだけで、心がこもっていない気がしています。
実際そういう状態が続いているので、ほんとにそこから、まわりのこととか、生きとし生けるもののこととかを想えるようになるのか……。
どういう気持ちで、ふだん、慈悲の瞑想すればよいでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
ま、心がこもった方がいいにはきまってますけど、人は徐々に変わりますから、そんなに心配しなくてもいいと思います。
呪文のようであっても、唱えたほうがいいんです。
自分で気付いていないんですけど、やっぱり変わっていくんです。
頭で観念的に思っているイメージには合わないという、自分の頭のイメージに合わないということだと思います。
自分が思っているイメージとは関係ないんです。すっごく楽しく、気楽に生きることができるようになるんです。人とのトラブルがなくなっていくんです。
そういうことは自然に起きますから、呪文のようでも唱えたほうが心がすごくきれいになります。自分の人生をしっかり守ってくれます。ガードしてくれます。
少し続けていくと、自分が気づかないうちに美しく変わっていきます。
あまり気づかないんですよ。自分が前と全然変わっていないと感じるんです。
それが、ほんとは変わっているんです。「わたしは変わったんだぞ」という自我がないんです。自我がなく成長するんだからね。
なにか証明書とか、合格証とかもらっちゃうと「やったぞー!」という気持ちが出てくるでしょ。それはほんとは自我なんですね。
その合格証がなければ、自分に証明もないんです。自分自身が変わった場合は合格証というのはないんですね。自分が変わっているんだから。
そうなると、自分が変わったと自分では感じないということになってしましますけど、実際社会の中で、たまたま、自分が変わっているんだと分かる出来事が起こるかもしれません。
あるいはそういう嫌な出来事に合わないかもしれません。自分が変わっているんだと分かるためには、ちょっと厳しい環境に置かれないと分からないんですよ。ちょこっとした不幸な出来事にあったりしないと分からない。
そういう不幸な出来事に出会わない場合は、気づかず、そのまま行くんです。
変わることは変わるんです。
そういうことで、あまり心配しないで、呪文のようであっても慈悲の瞑想はした方がよろしいです。
気を付けてほしいことは、雑念が割り込まないように、ただその言葉だけで頭いっぱいに回転させてください。そのときもあれやこれやと考えていると、瞑想にならなくなっています。
慈悲の瞑想の短い時間だけ、他の雑念が入らないように、瞑想の言葉だけ回転させる。
それで確実に人は変わってきます。
(関西定例瞑想会 2008.02.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/510540.html 音声ファイル:上よりメモしました)
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