質問「母が邪見に陥っています。いろいろなものを信じては、執着したりしています。それを何とかしてあげたい。わたしから長老の本を母へ渡したりしています。わたしが理解をしていることを母に伝えたり、また、他の人に伝えるには、どうしたらいいですか?」
回答(スマナサーラ長老)
これは複雑で簡単じゃないと思います。
しかし、やりやすい方法っていうのは、自分のキャラで、性格で、表現しなさいとお釈迦様が教えています。
キャラの影響というのはものすごい。言わずもがな、ということです。
人格が、キャラが上達していると感じさせることが、すごい影響を周りに与えます。何か口で言うよりも、周りの人に言いたいことを伝えています。そうでなければ、スリランカのばか坊主と同じになってしまいます(笑)(参考・すべての悪の親玉「邪見(じゃけん)」とは?【十善十悪(中編)】 - 瞑想してみる )
説法する人の第一は、自分で理解してやっているのかということです。
今の質問だけに限って考えてみると、お母さんが聞いてくれないのは決まっています。「うるさい、黙っていろ」というのは決まっている答えです。
自分の性格を直してみて、お母さんのように何か執着するものがなくてもわたしは落ち着いていますよ、という状態を見せることです。
もう一つのアプローチは、対等に議論してみることです。
これは日本文化的な壁もありますね。日本は議論しない文化なんですね。しかし仏教はインド文化で現われました。インド文化は議論する文化です。議論したからと言って、相手を敵だ、悪人だということではありません。ただ単に、自分がどうやって整理してしゃべるのかということに頑張る。
具体的には、お母さんが神社のお札で救われているというなら、「本当にそれで救われているんですか? 他の神社のお札ならどうなんですか? 二つあれば倍になりますか? では何もお札に頼らず、安心できるならどちらがいいですか?」
対等に議論して、怒りやら入り込まなければうまくいきます。
お釈迦様は、ご飯も食べるし、服もちゃんと着ていました。そんなことは、当時の修行者から見れば、「贅沢三昧でしょ」と批判されました。
ある日、他宗教の方からこう言われました。
「釈迦尊は贅沢だ。しかし贅沢というならコーサラ国王やビンビサーラ国王などには、釈迦尊はかなわないですよ」
言っている意味は、お釈迦様の負け、ということです。
お釈迦様は見事に議論しました。まず、テーマを出します。
「コーサラ国王があの程度で贅沢というなら、わたしほど贅沢な人はいません。わたしにはかないません」
意図的に、「これはおかしいでしょ」というフレーズを言います。論理学の世界です。
お釈迦様に、「贅沢をしている」と非難しても結局は出家です。定住場所もなく、托鉢でしか食べられないし。これで国王より贅沢というのはちょっとおかしいでしょう。そこで、お釈迦様は説明してあげました。
「国王が寝るときは、分厚い布団の中で、豪華な毛皮をかぶって、ベッドには蚊帳をしっかり張って、窓を閉め切って、部屋の前には二人の兵士で守られていて、城の外の中もしっかり警備されています。しかしそれでも安心して寝られますか? 恐怖感なく、不安なく」
それはないでしょうね。恐怖感があるんだからそれほど警備を固めるのです。
続けてお釈迦様は、
「頭の中で悩むことなくいられますか? たった1,2分だけでも、何の悩みなく、思考なく心を停止させていられますか? わたしは1,2分だけでなく、1日でも、2日でも、1週間だってその状態でいられますよ。コーサラ国王とどちらが贅沢ですか?」
それで終わり。
さすがお釈迦様こそ贅沢しているんだ、という結論になりました。
お釈迦様を非難していたのに、結局ほめることになって終わってしまいました。これはすごい論理方法なんです。
そういうわけで、対等に議論というのは、ただ論理的に「どうですかね?」と進めます。
たとえば、「神様、わたしを助けてください」と言うのと、「神様、みんなを助けてください」と言うのでは、どちらが人格的に上だと思う? というふうにお母さんに聞いてみる。
するとお母さんは、「分かりませんよ、あんたが言っていることは」と言うでしょう。
「『神様助けてください』と言ったら、言っている人はみじめでしょう。
自分のことしか考えてないでしょう。では、神様にみんなのことを助けてくれと言ったら、みんなみじめでしょう。
わたしを助けてください、よりはみんなのことを助けてください、と言うほうが上です。しかし、助けられるほうはみじめですよ。
みんなが幸福でありますように、と思ったらどうですか? 助けを求めてないでしょ。そのほうがいいんじゃないですか?」
こういう感じで、柔らかく議論する方法もあります。
自分の理解を言う場合も、「わたしはこういう風に考えていますけど、何か反論があったら言ってください」と言います。「わたしの話を聞け」ではなくてね、相手にも反論の自由をあげなくちゃいけない。
「わたしの考えで、何か間違ったところがありますかね?」と聞くたびに、聞かれた本人の心が変わっていきます。
心のシステムです。
「わたしがやっているんだから、あなたもやりなさい」では、「なんで?」ということになります。これは人の生きる権利を奪うやりかたです。
「間違ったところがあったら言ってください」と言われると、言われた人は客観的に調べます。調べたら、「あら? 別にいんじゃない、それで」となる。本人が「この生き方もしっかりした生き方だ」と思う。それでもう、入っているんです。
そういうやり方もあります。
(2014年12月23日 東京・法話と実践会よりメモしました)
参考:この質疑応答の直前にあった説法