「初期仏教の女性・男性論 女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です」を読んだ。
初期仏教の「女性・男性」論: 女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です (初期仏教の本)
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ
- 出版社/メーカー: 日本テーラワーダ仏教協会
- 発売日: 2015/10/10
- メディア: Kindle版
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仏教は女性差別的?
仏教は女性差別的である、と言われることがあるそうだ。
理由は主に三つ挙げられている。
(一)比丘尼サンガが比丘サンガの管理下に置かれること。
(二)戒律で、比丘尼は比丘に礼を尽くすことになっていること。
(三)正等覚者(世界で初めて覚る人)は男性であるという法則があること。
しかし本書によると、女性差別というのは誤解で、お釈迦様も「人間は種として同一で差別は成り立たたない」と明言しているという。
ではなぜ、比丘尼は年配者であっても必ず比丘に頭を下げてあいさつしなければならないのか?
「戒律では、出家した女性が出家した男性に礼をしなくてはなりません。ですから八十歳のゴータミー妃でも二十歳ぐらいの比丘に頭を下げて礼をします。(略)ゴータミー妃がお釈迦様に戒律の平等を頼んだことがあります。しかしお釈迦様は却下されています」なぜ却下したんだろう。ここが分からなかった
— チエリ (@thierrybuddhist) October 10, 2015
と、読了直後は思った。
その箇所を読み返し、「出家したら性別を越えなくてはいけない」ということに原因があるのだ、ということがわかった。
「俗世間では女性は管理者である」とスマナサーラ長老は言う。しかし、出家の世界ではそのルールを持ち込むことはできない。
男女は種として同一でありながら、性質の違いによって肉体的に弱いもの(女性)と強いもの(男性)に分かれる。その物質的な違いを補うために、比丘は比丘尼を守らなければならない。
もし、「比丘尼は年配者であっても必ず比丘に頭を下げてあいさつしなければならない」というルールがなかったら、どういう状況になるのだろう?
女性とはどんな性質か?
女性は強い。だからこそ、「強くなりすぎた女性を抑えている」(本書より)のが今の社会の本質であるようだ。一般社会は「生きる」社会だから、生き物を育てる女性が強いのは自然なことで、本来は抑える必要はない。
しかし、生命の世界を乗り越えた(または乗り越えようとしている)出家社会で、誰かが「生きることを管理する側」になってしまうというのはマズいことだろう。
その俗世間のシステムを断ち切るために、一見、女性差別的と見えるような戒律で、女性の「管理する」という本来の仕事をさせず、「女性を消す、性別を超える修行」を目的としたのが、この「比丘尼は比丘に頭を下げる」戒律になった、ということだ。
とはいえ、一般的な感覚では、やはりちょっと違和感は残る。聖者の比丘尼が、ただ相手が比丘だという理由で頭を下げるところは見たくない、という正直な気持ちがある。でも、覚った比丘尼に、頭を下げることで傷つく自尊心はないのだろう。
「正等覚者は男性であるという法則」 について
さて、女性の物質的な弱さは、「正等覚者は男性であるという法則」にも関係するとわたしは思う。
世界初の覚った人・ブッダとなったお釈迦様は、六年にわたる苦行をした。
苦行は覚りの絶対条件ではないが、正等覚者になるためにおいてだけは、必要条件である可能性が高い。お釈迦様は、あらゆる試行錯誤の修行を経て、やり尽したところで「苦行は意味がない」とわかって、その後、覚りをひらくからだ。
苦行の場は、ひとけのあるような、身の安全が保障されるような場所ではなかっただろう。その必要条件である苦行を女性なら実行できたか? と考えると、おのずと「正等覚者は男性であるという法則」になるのではないだろうか。
お釈迦様の育ての母であるゴータミー妃が「出家したい」と願い出たとき、お釈迦様は「出家などという厳しい道を歩まなくても、家にいて何不自由ない環境で修行しても覚れますよ」と言って、初めは断っている。
(http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/02/27/050000)
これは逆に、「正等覚者は男性であるという法則」は、「男性差別では?」と捉えられても不思議はない。女性である限り正等覚者の苦労は永久的に免除されていて、かつ、安穏な環境でも修行をちゃんとやれば覚れます、とお釈迦様に太鼓判を押されているのだから。
スマナサーラ長老は、「正等覚者は男性であるという法則」の理由として、「生命として(命を育てる)女性には暇と自由がないが、男性にはその両方がある」と説明している。
「仏教は女性差別」という疑いが晴れましたか?
仏教は女性差別ではないか、という疑いはこうして晴れたと思うが、いかがだろうか。
出家の世界では女性・男性論はそもそも「ない」のだ。あるのは、生き物の物質的な条件の違いだけだ。
それよりも、今は自分がいる世界(俗世間)の女性差別を心配しなければ。
こちらのほうは解決どころか、問題がめちゃくちゃに山積している。
女性・男性論、今の社会では ……
スマナサーラ長老は、「生命論から、男性、女性、人間のことを理解すべきだ」と提言している。生命論からすれば、「支配する側の女性が自分の責任と天職を全うするべきだ」という。
それはつまり、「心から平和を望むなら、豊かさを望むなら、戦争が嫌ならば、女性たちが命令すべきです。『こうしなさい』と政治をやっている男たちに力強く命令することで、ジワジワと世界は変わっていきます」ということだと。
ちょうど、ほかに読んでいた本のなかで、高橋源一郎氏が、「片山(杜秀)さんは、いちど『内閣などはぜんぶ、女性にかえてしまう』ことを提唱していて、それは、『子供を産むとか、育てるという音を本気で考えていない男の社会』がかくも無残な結果を招いたからだというのだが、これも、ぼくには『暴論』ではなく、ものすごくまともな意見に聞こえるんですけれどね」と言っている。(「ぼくらの民主主義なんだぜ」p97、朝日新聞出版、2015)*1
ただ、今の女性政治家のなかには、女性と言えどかえって危ない・要注意人物も散見するようだ。それも、わたしたちがきちんと監視して「責任」を果たさなければならない。
出家と世俗、共通点からみえる問題解決の糸口
こうしてみると、出家の世界と同様に世俗の世界も、人は「女性・男性論を越えて同じ人間だ」という基本は変わらない。
出家の場合は、「物質的な違い」によって区別があり、世俗の世界では「役割の違い」により区別がある。
「女性・男性論を越えて」いくことは、比丘尼の伝統が絶えて久しいように、出家の世界でも簡単ではないものを、世俗のわたしたちがどこまでやっていけるものなのか?
難しいのは承知で、このアプローチが不可欠なのは確かなのだ。
多くのジェンダー問題は、女性・男性論を超越できないゆえに起こっているのではないか。たとえば、アンチ・フェミニズムの声が上がるとき、それは、女性vs男性という対立構造が出来上がっているのだ。
この社会の女性差別も、一朝一夕に出来上がったものではない。恐ろしく長い間にジワジワと作られてきたのだ。それなら、こちらも、やはりジワジワと、「女性・男性論を乗り越えて同じ人間だ」という考え方を育てていくしかないのだと思う。