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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

最終回・第八禅定まで|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(6)

感覚のエントロピー|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(5)から続きます)

そういうものを見て、お釈迦様が結局「苦」だろうと、おっしゃったんです。これで経典のメインポイントを終わります。

 

次。

お釈迦様にしてみれば、哲学的分析では、時間の無駄ということになるんです。たとえ真理を発表しても、「無駄でしょう」ということになる。いかに、われわれに有効か、必要かということが大事なんです。

 

はやぶさ」がチリ一つを持って来たんだ、これはすごいや、と言う。ほんのちょっとチリが付着して、すごいと言っても、なんの役に立つのか。それで太陽系の秘密を全部探り出すとか、誰をだましているんですかね? チリ一つを、十か月間くらい調べても、サンプルが足りませんから。最低百グラムくらいは必要でしょう。

 

ですから、ただ知っただけでカッコいいと、仏教ではみなさないんです。「だから何?」ということが大事なんです。次は、だから何、ということになって来るんです。「感覚が苦以外ない」なら、どうしたらいいのかい? と。大変やと、これは。でも生きているでしょう。生きていても苦だけなら、なにやこれはと、がくんと暗くなっちゃうんですね。もうどうにもならない。暗闇に陥れたことになりますね。それは現実だよと言っても。だってほんとのことでしょ、知ったことじゃない、というのは仏教ではないんです。

 

だから、こういうことをやりましょう、と解決策を出す。そこは、明らかに仏教と科学の違うところです。科学者はやりません。仏教は解決も見出す。

 

そこでお釈迦様はこういうことをおっしゃるんですね。

「だから比丘よ、わたしは徐々に、順番に、saṅkhāra(サンカ―ラ)を、すべての現象を滅する方法を教えています」

 

いわゆる、感覚を順番になくしていくんです。感覚をなくしたということは、完全に苦をなくしたということになります。それ以上は言葉さえも成り立たない。だって、言葉は感覚でしょう。言葉もなくなったということは、それ以上の話は終わり、ということで、人間が頭で考えることは不可能。それが解脱の境地なんですね。

 

だから、解脱に達した人は人間にあらずというんだからね。人間なんですけど、もし覚っているなら人間とは言えない。「あんた、人間ですか?」と聞かれたら「違いますよ」と言います。お釈迦様もそういうんです。「いえ、違いますよ」と。

 

感覚に対して、すべて、ですからね。一切はあるかといえば、感覚がある、ということ。思考ではなんもできんですね。そこは順番で、ステップバイステップでなくしていきましょうよと。いきなりできませんよ。これは命そのもののことだからね。順番で自分が向上しながら、感覚をドンドン減らしてくんです。

 

それで冥想しますね。冥想すると、第一禅定に入ります。第一禅定に入ったら、言葉が消えます。第一禅定に入った人はしゃべりません。感覚が消えます。でてこないんです、嫌な気持ちが「しゃべりたい」という。しゃべりたいときは嫌な気持ちがありますよ。それでしゃべりたくなっちゃって。チェックしてください。しゃべりたくなった瞬間の自分の気持ちをね。なんかイライラ状態です。

 

それが楽しみかもしれませんし、苦しみかもしれませんし、中間かもしれませんけど、感覚なんですね。そのしゃべらせる感覚が消える、第一禅定で。

 

第二禅定に入ったら、第一禅定の、「しゃべりませんけど、頭では概念がぐるぐる回っている」状態がストップする。頭の中で、思考もストップします。

 思考がストップすると、感激で、至福感で、「神と一体になった」とあほはそう思ったりして、興奮して、その場合は二度とその禅定に達することができなくなってしまう。あまりにも脳細胞がダメージを受けてしまいますからね。そうならないように、わたしは、そこは激しく言葉を言ってコントロールしていますけど、それでも壊れる人は壊れます。

 

思考が止まっただけで、かなり興奮しちゃいますね。冥想ですから、怖くはならない。興奮しちゃうんですね。「この喜悦感は何だろう」と。

しかし、第三禅定に入ると、あの「pīti 」、あの喜悦感も消えて、もっと落ち着くんです。

 

第四禅定に入ると、呼吸が止まるんです。呼吸するということは、基本的な苦しみでしょう? 体の中に基本的な苦しみがあって、これで意識があろうがなかろうが、第四禅定に入ると、その苦しみがなくなって、呼吸しないことになります。

 

それでもこころは働いていますよ。さらに上の禅定に行くんですね。こころが無限ということを最初に認識します。無限というのは認識不可能なんです。

俺がここにいる。ということは、両親がいたから。両親がいたということは、その四人の両親がいた。その両親には八人の両親がいた。その前は十六人で、三十二人で、……と遡っていくと、頭がこんがらがっちゃうんですね。やっぱり、最初は誰かが作ってくれないと、といい加減で手を打っちゃいますね。

 

あれは無限が理解できないからなんです。思考がムチャクチャになっています。わたしがいるのは両親がいるからだ、と遡ってみると、一万年くらいたつと地球上にぎゅうぎゅうに人間がいることになっちゃうんですね。これまた違うでしょう。思考が間違っています。如実に思考していない。湾曲した思考なんですね。

 

逆にスタート地点を考えてみる。初めは男と女がいた。そこから人間が増えていったという方法もありますね。そうすると一人目の男と女がいなくちゃいけない。しかし、現実はそうじゃない。

 

人間にはいろいろと種類があるんですね。一つ消えた人類があります。ネアンデルタール人は滅びたと言われています。人間の祖先はクロマニヨン人です。そういうふうにいくつかの種類がいたことはハッキリしていますけどね。しかし、こんなの考えると頭がおかしくなりますから、初めに二人がいて、それからどんどん増えていった、としてしまう。

 

このままでは人口が爆発するんだ、という変な思考があるでしょう。だから人口管理しよう、とかね。どこまでおかしいんですかね。人口を管理するどころか、日本は滅びているでしょう、老人ばっかりで。人口は増えませんよ。あと十年くらいでどうなるか、見ていてください。

 

今の人々は子供を産まないしね。頭がおかしくなっちゃったんだから、こころが物質を、体を管理するので、産みたくても産めませんよ。男たちには生殖能力は減っている。これは思考のせいなんです。女に興味がなく、おしゃれすること、イケメンでいることに興味があるんですね。子供と遊んで楽しい、というのはないんです。

 

子供ってむちゃかわいい、と思うと繁殖能力が発生する。こころで決まってきますからね。こころでなくても、一般的な科学知識で見ても、それが現実なんです。自分の国はまだまだ経済発展もなにもしていなくても、老人ばっかりなんです。子供が少ないんです。わたしは自分に子供がいないから、自分の兄弟の誰かが子供を作ったら、わたしは出家だから男の子を自分で育てたいけれど、親戚には一人しか男の子はいないんです。どうしますか? 一人しかいないのに、くれるわけないでしょう。

 

その子はそろそろ大学を出ますけど、何人かの大人が群がって一人の子供の面倒をみるから……。この間、山をその子と一緒に登ったんですけど、山の頂上でも、その子のお母さんが電話をかけてくるんですね。わたしと一緒にいるから心配することはないでしょう。でもやっぱり、一人しかないから、みんなで構いますね。それがもっと時代が進むとどうなることかと。かなり老人人口が増えるのは、スリランカのスピードも日本に負けないと思いますよ。なんかみんな現代人で、興味が別なところにあるんですね。携帯にはみんな興味がありますけど、ほかにあんまり興味がないんですね。そうなってくると、たまたま、どうしようもなく結婚するような状況なんです。「ああ、結婚しなくちゃあかんか。そこまで言うならば結婚します」という態度で、興味がない。女の人も結構います、結婚に興味がない。その日その日を楽しく遊んで、悪い遊びはしませんよ。あちこちに興味があって、それで終わり。

 

これでは大変なことになりますよ。人口爆発するんだぞ、というのは計算違いです。人口管理しなくちゃとか。あれはアダムとイブの話をそのまま計算しているんです。アメリカ中心の考えで、アメリカ人は進化論を認めませんからね。アダムから生まれたと正しいとおもっているんだからね。

 

ポイントは、無限ということはなかなか人間に理解できないんです。だからどこかで手を打つ。あの日で、人間があらわれましたと、バカバカしいことを言ってしまう。科学者は、ビックバーンの前に時空空間はなかったと言ってしまうんですね。ビックバーンと一緒に時空が生まれたんだと。ビックバーンからずっと変化で止まれなくて、それに伴って時空空間が生まれて、まれなチャンスで地球が発生して、しかし宇宙にはほかにも地球のような存在はあるだろう、とかね。

 

それでも科学者は計算するけれど、計算は簡単です。八の文字を倒しちゃえば無限になるから、わかったような気分になる。数学というのは、巨大なものを小さくシンプルにして、脳に入れて置き、わかったような気分になります。例えば、10の878倍、とか、すぐかけるでしょう。でも実際数字で書けますか。みなさまも一億、二億と気軽に言うでしょう。一度でも一億円を見たことがありますか?

小さくシンプルにして、わかったような気分にさせる、あれって一種の麻薬みたいなものです、数学は。

 人間には無限ということは理解することができない。

 

それで、第四禅定に入った人は、呼吸も止まります。思考はまるっきりない。しかし、こころはある。次に、空(くう)を認識する。物理的な空を認識する。宇宙空間を認識します。空ということは制限がない、無限ということを感じます。そこを感じた人には、物質という認識・感覚が初めて消えます。

 

次に冥想すると、空間という感覚も消える。物理学とか知っている方は、微妙に頭だけで理解できると思いますね。思考を止めて、呼吸までを止めたら、空間・無限を認識できる。無限というのは物質。次の禅定に入っちゃうと、物質を認識しない、その感覚が消える。それで、時間だけが残りますが、それは認識なんですね。

 

次の禅定に入ったら、認識が無限であることも消えます。認識が無限であるということを認識します。それには物質を溶かさなくちゃいけない。物質を認識しないことになると、認識無限ということに達します。認識無限とさらにいっちゃうと、認識も無限でなく、それも飛ばします。それでやっと、何もないということを認識できます。無を認識できます。無とか空とか、軽々く言っても、あんなのは騙し。人間には理解できないんです。

 

七番目の禅定に入ると、無を認識します。そこで、最後に、無を認識したらやることないね。それで覚ったわけじゃないんです、まだ。次に、認識そのものを滅しちゃうんです。というか、感覚そのものをストップする。今、感覚というのはぶ厚いもので、それが減って減って、ストリッピングして、最後の最後に、ただ感覚のみがあって、感覚が無を感じているんですね。そこで、感覚を、これ以上はできなくなると、感覚も止まるんです。それでもう、終わり。何も言えなくなっちゃう。そこはもう、覚りの境地なんですね。その人に、saññā(サンニャー)とvedanā(ヴェーダナー)が消えますよ、と。saññāというのは、認識して作る反応ですね。vedanāは、感覚そのものですね。それが両方きちっと停止しちゃう。それで最後。それ以上はない、成り立ちません。理屈でも成り立ちません。

それは修行するときの、こころの進み具合です。

 

それから普通、覚った比丘には、こころにrāga(ラーガ・欲)が消えている、怒りが消えている、無知が消えている。覚ったお坊さんたちはいますから、普通に禅定に入ったりしないで、普通に生活しています。感覚はありますけど、欲も怒りも無知もそれは出てこない。われわれは、好きか嫌いかで生きていますからね、いつでも。物事を見ると比較している。それで認識していますよ。そのファンクションがなくなったらどうなる? 

 

それから、禅定に入っていることもできますね。禅定に入っていると、また順番になくなっています。第四禅定に十五分間入っているとします。十五分間も呼吸していません。心臓は止まっています。科学的にあり得ないでしょう? 物質はこころで支配してます。そこでいってから、お釈迦さまがおっしゃっています。呼吸しなかったら死ぬだろうと。死なないんです。

今、呼吸止めましょうとしたら死にますよ。だって呼吸を止めても考えている、感覚もある。しかし、第四禅定ではメインスイッチを切るんです。

 

質問者「代謝を完全に止めるということですか?」

 

そう。そのまま止めるんです。たとえば、機械はあります。それで認識をオンにすれば、また機能するんです。これを長い時間やらないのは、理由を知っている? 一か月間くらい呼吸を止めていればいいでしょう、と思う? できません。どうして?

 

シンプルな理由です。エントロピーがあるんだから、物質に。細胞はそのままかもしれませんけど、素粒子的にはそのままエントロピーにならなくちゃあかんでしょう。勝手にエントロピーになっちゃうと、スイッチ入れようと思っていても入れられなくなる。

 

エネルギーは変化するものです。変化するものにはエントロピーがあるんです。だから、こころと物質のカラクリです。こころはストップさせると完全停電で、そのままあります。たとえば、電気機械を買ってきて、一年間使わずに箱に入ったままおいておいても、一年後まだ新品かというと、新品ではない。パソコンを動かさずに三か月くらい放っておいたら機能しなくなる。エントロピーはしょうがないんです。

 お釈迦様も、samāpatti(サマーパッティ・入定)に入って涅槃に入らずに、百年くらいいたならば、次の人にも説法できるでしょ、というのは無理です。

 

これで経典は終わります。

どんどん順番で、感覚を減らして、減らしていって、最終的に覚りに達するときは、感覚はストップするんです。かなりの成長の過程で、気分でできるものじゃない。遊びでふざけてできることじゃなくて、しっかりとした科学世界なんです。冥想すると、順番に消えていきます。

 

憶えておいてください。感じるものは何であろうとも、苦以外何でもないんだよというのは、お釈迦様の分析なんです。これは気をつけて分析しているんだから、ちょっと難しくなりますけど。なに主義にも入らないように気をつけなくちゃいけないし。

 

(今日は理解できなくても)あまり気にしないでください、今日の経典は難しかった。理解できる範囲でよろしいんです。

(おわり)

 

*この記事は、スマナサーラ長老によるパーリ経典講義「相応部六処篇2受相応2独坐品独坐経」http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html

を聞いて書きました。

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参考書籍:

「心の分析」というタイトル通り、シリーズの要となる一冊。 第一禅定から第八禅定までの説明も載っている。

 

第一~第八禅定については上記の第二巻のほうに詳しいが、 こちらは慈悲の冥想による禅定の作り方と覚りについて(p95‐106、p135)、また、食事の冥想をsaññā(想・認識して作る反応)冥想の一つとしての紹介(p106-110)などがある。

ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析1

ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析1

 

 参考外部サイト:仏教的に正しい禅定の作り方