<スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2014.05.06
https://www.youtube.com/watch?v=q0uaJAGnjXI
35:00~より書きました。>
五戒って言ったら数字で表すでしょ? そうではなくて、お釈迦様は数字で教えていないんです。戒律を教えるときは。リミットがある教えだから、数えられますけど、教えるときは数字で言っていないんです。
数字で教える場合は、こう仰いました。「○○を期待する人は、この四つを守りなさい」とかね。そのときは数字。たとえば在家の方々にね、「六方から自分を守りなさい」。六方とは、東西南北上下のこと。
夫婦の場合は、旦那さんも奥さんも項目を五つ守りなさい、と。そのときは、五つだったら五つで、しっかりまとめて言っていることです。
戒律は数字が決まっていないんですね。増えたり減ったりする。
パーリ語で、sukhappadaṃ スィッカーパダン。padaṃ パダンというのは言葉ということですね。sukha スィッカーって何ですかね? 日本語訳では「学ぶ」なんですね。この学ぶというのは、本を読んで学ぶことではないんです。「あなた、もっと学びなさい」と言われたら、「はい、わかりました」と言ってその場で本を読んで調べたりしないでしょう。もっと意味が広いんですね。
「なんでこんなことをやっているのか。もっと学ばないのか」と言うと、その場合は、そういわれた人になにか身についていないんですね。人が変わっていないんですね。
だから学ぶということの正しい意味は、トレーニングなんです。
ということはこの戒律は「戒律」じゃなくて、トレーニングなんです。トレーニングが終わったら、もう間違わないんです。たとえば、きれいな文字を描けるようにと、四年間も練習する。それを先生が見て、「これはもう一人前のプロ級だ」となったら、卒業させてあげる。ということは、もうトレーニングしなくていいでしょう。でも、その日から字が汚くなる? そうじゃないでしょう。そのあとは楽々書いても、その字はカッコいいんです。もう大丈夫です。ちょっとメモった字でも、とてもきれいです。
何かトレーニングを終えたら、落第がないんですよ。堕落はないんです。だからこういう戒律の項目は、一個一個がトレーニングなんです。数えなくてもいいんです。自分にできることをやる。
「五つ全部は、これはごめん、守れませんよ」となったら、一個だけ取ってトレーニングする。トレーニングを完了したら、もう一つ選ぶ。それを完了したら、もう一つ選ぶ。一個トレーニングすると、結構他のものも自動的にトレーニングできるようになっている仕組みなんです。
(sīla(シーラ)は戒律ではない-戒律(2) に続きます)