前回
ポジティブ的に見なくてもいいんです。
なんでポジティブ的に見るんですか。
うまくいくかいかないか、うまくいっていいのかどうかわからないしね。
わたしも、かなり昔の、あなた方が生まれる前の話ですけど、日本には来たくなかったんです。
外国にどこか行って、とことん研究したり活動したいという気持ちはあったんだけど、わたしの思考パターン、能力からみれば、ヨーロッパしかあわないんですね。そういう人々と仲良くしゃべれるし、お互いすごく仲良くするし、相手が言っていることが間違っているなら、なんのことなく議論して納得してもらうことは可能でしょうし。これは何一つも成り立たない、日本では。
まず、この論理的な話は根本的に嫌なんですね、日本文化は。
あいまい、中途半端でしゃべれと。そうすると、お互い、怪我することなく、「そうかも」とか「もしかすると、どうでしょうね」と。会話に「どうでしょうね」というのは大嫌い。「どうでしょうね」というのは何でしょうね? 役に立つようにしゃべりなさいよと。
そういうことで、しかし、問題は、脳はそういうふうにあいまい、中途半端ではないんです。
脳はものすごく論理的に組み立てられている臓器なんですよ。脳は、yes・noはっきりしなきゃ動かないんです。手を挙げるか、下げるか、水を飲むか飲まないか、yes・noはっきりしないと動かないんです。
わたしにわからないのは、こんなあいまいに考えている人々は、論理的に考えている脳と仲良くしているんですかと。よくわからないんですね。そうすると、まるっきり非論理的な感情を出さなくちゃいけない。
だから感情で生きているんです。
根本的に日本人は、昔の日本人はとんでもない人間でしたけど、現代の日本人はそんなに戦う精神がないからそんなに感情も悪くなっていないけどね。
昔、人を殺すわ殺すわ、お互いに同じ人間で殺し合いをしていたでしょう、日本で。
単純に感情なんですよ。ちょっと大名の機嫌、意見が違ったら、こちらが切腹しなくちゃいけない。そこでありがたく切腹するという。何がありがたいんですかね。おなかを切っても死にませんだからね。だれかが首を切らなくちゃいけないでしょう。えらい方々は、その人を選ぶことができる。そこで、自分の仲間、信頼している人に頼むでしょう。こんなことって、よくやるもんですね。
自分が尊敬する人の首を切るのが、ありがたいことだと。
完璧バカじゃない? なんでそちらに美の世界が現れるんですか。だからそこには理論がないんですね。誰かさんが自分の切腹を命じたら、その人が来て首を切ったほうがいいでしょう。その方が切る人にとっても、敵をやっつけたという。
そんな話をしても意味がないんだけど、
とにかく、yes・noをはっきりすること。
(続きます
スマナサーラ長老・東京法話と実践会 2016.06.12
http://www.ustream.tv/recorded/88196045 (期間限定公開動画)を聞いて書きました。
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執着を減らして、すべての生命のために生きてみることが、執着をすてることです。だから、善行為がすべて執着を捨てる話です。それを理解したほうがいいんじゃないかなと思いますけど。