質問
「冥想中の妄想などを、長老は『カットする』と仰っています。冥想を楽しくやりたいので、嫌な気持ちをカットしようと思います。しかしそれは、わたしの場合、怒りと欲でカットしようと思っているのだと気づきました。
ほかに長老は『放っておけ』と仰っています。
その『放っておけ』と『カットする』というのは対立した概念と、わたしは思います。
なぜそれが両立するのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
「放っておく」ということは、一貫した修行のアプローチなんです。
修行の場合は、始めてから解脱に達するまで、「放っておく」ということを実行しなくてはいけないんです。なぜならば、一切の執着を捨てることで解脱ですからね。この執着を捨てることの訓練ですね。だからこの「放っておく」は、ずっとあります。
一方で、「カットする」ということは、その場その場で決めることです。
あまりにも邪魔だったらカットする。
たとえば軽く妄想が出てくると、「妄想、妄想」で十分です。
しかし妄想がウワーッときて、自分を抑えてつぶそうとしたところで、その妄想をカチンとカットしなくちゃあかんですね。
だからカットすることはずっとやる仕事じゃないんですね。
その場、その場でやることなんですね。
チラッと妄想が出てきたら、それは怒りの妄想だとする。
そのときは「怒りの妄想」と実況すれば終わり。
それでは済まないときもあるんですね。
次から次へと妄想が出てくる。洪水のように。それだったら環境を変えるか、別なことをやるかなんとかして、あの流れを一旦カットしなくちゃいけない。流れによって殺されそうになっているのだから、その場合は逃げることはする。
それはケースバイケースでやることなんですね。
放っておくということはそうではなくて、物事に囚われない、流しておく、ということです。
流しておくのはいいんだけれど、自分が流されて大変なときは、カットするということをする。
そういう差がありますね。
(終わり)
《スマナサーラ長老 東京法話と実践会 2016.10.30
http://www.ustream.tv/recorded/92526227 (期間限定公開)を聞いて書きました。》
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