ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

仏教というのは「実践教」。信じるモノは何もない。あるのは「やってみる」ことだけ 【ウペッカーとは】

質問「ウペッカー(捨)とは何ですか?」

回答(スマナサーラ長老) 

一つ目は、瞑想しているときの心の揺れを捨てることで、穏やかになること。

これは一つのウペッカー*1 なんですね。精神的に安定している心。いわゆる動揺しない心。あくまでも自分の心の状況を意味するんですね。

 

我々は何か聞いたり見たりすると、心が結構激しく揺れ動くんですね。一般的には、貪瞋癡(トンジンチ)によって揺れ動いたりする。必ず波があるんですね。いわゆる気持ちとかいうのは、心の揺れなんですね。楽しくなったとか、悲しくなったとか、落ち込んじゃったとかね、耳が痛いとかね。これは心の波、揺れなんですね。この揺れが無くかなり穏やかで冷静でいることが、心が上達していると言うことなんですね。

 

そういうわけで、心の揺れが無く、冷静で落ち着いていることが、ウペッカーの一つで「自分に対するウペッカー」なんですね。これは瞑想の世界で出てくるウペッカーになります。

 

次に、慈悲の瞑想に対するウペッカーって何でしょうか。

 

自分に対するものと慈悲に対するものと、なんで同じウペッカーと言う言葉を使うのかと言うことにも意味があります。

 

我々は、いつも生命を自分と区別して比較して認識しているんです。「ここに私がいて、ここに○○さんがいる、ここに人間がいる、ここに猫がいる、犬がいる」とかね。こういう風に、「ここに女性がいる、男性がいる、大人がいる、子供がいる」と認識することで、心が揺れるんです。反応が違うんです。

 

80歳のおばあちゃんと話すときと、18歳の女の子と話す時では、心の揺れが同じじゃないんです。かなり違う波を引き起こすんですね。犬猫に対する心のアプローチ、蛇に対する、ゴキブリに対する心のアプローチとかね。

それぞれ、えらい違うんですね。

 

その状況で生命と付き合うというのは至難の業です。死にそうに苦しくなるんですよ。どこまで波を打てばいいかと分からなくなるくらいね。もう耐えられないんですよ。だからみんな、付き合う範囲をギリギリまで狭くするんです。

 

現代の日本は、みんな孤立しちゃって。一人一人で生活しているんですね。一人の生活に慣れている人が、二人、三人の生活になると、もう耐えられないんですよ。ものすごくストレスたまっちゃって。大変なことになるんですね。

 

この心の揺れっているのは、いいものじゃないんですよ。激しい波だから。高波だから、これは津波になっちゃうんですね。

そこで慈悲の瞑想をして、「みんな生命だ、生命だ、生き物だ。誰でも」と、差別感で生命を区別して見ることをやめるんです。

そうすると、「自分と同じ生命だろう」と。「何も変わりが無いだろう」

それで、ものすごく心が穏やかになっちゃう。リラックスするんです。

そうすると、10人と仲良くしても100人と仲良くしても同じこっちゃと。犬猫、いろいろな動物、昆虫がいて、かっこいいのやかっこよくないの、どれだけいても「みんな同じ生命だから」とすごく穏やかにいられるんですね。冷静でいられるんですね。

 

心から、差別意識がきれいに消えていくんです。自分と比較することが無くなっちゃったんですね。

これが、慈悲の瞑想で言う「ウペッカー」なんですね。

 

だから、同じ言葉を使っているんです。瞑想で心の揺れをなくしても、慈悲の実践でウペッカーに達しても、自分から見れば同じ状況になっています。

 

しかし、ウペッカーは二つです。

 

自分で勝手に瞑想して穏やかな気持ちでいても、他の生命と付きあうときは「やっぱりヤダ、これは。煩わしいや」とかね。「面倒くさいや」と思ってしまう可能性があります。だから、瞑想と慈悲の両方を実践する必要があります。

 

質問者「ウペッカーとは理性ですか?」

 

ウペッカー=理性ではないですね、やっぱり。

理性と言うのは総合的な全体的な人格なんですね。たとえば、智慧が現れたら理性がありますけど、理性=智慧ではないんです。理性は育てるべきものですが、理性によって悟れるというものでもありません。智慧によって悟れるんです。

 

おもしろいことは、私たちは五戒を守りますと決めるでしょ。それで五戒を守っていくと理性が出来上がるんですよ。ほかに、一日一時間ヴィパッサナー瞑想をしますと決めてやっていくと、着々と理性が出来上がってくるんです。

 

だから、お釈迦様が説かれた何か一つを実践してみると、理性なしにできるものはありません。もともと理性が無い人でも、まあやってみますと、実践していくと、見事に理性が現れます。

 

長い間仏教を学んで納得した所で、仏教の全部を分かっているわけではないのだけれど、自分がちょこちょこっと勉強した所は十分納得して理解している場合があります。それで推測するんですね。お釈迦様は正覚者だから、お釈迦様の言っていることは間違いが無いが、自分が全部理解できるわけではないのだ、と。そういう人は、自分にいろいろ質問するな、わからないところはいっぱいあるんだよ、という気持ちになります。しかしお釈迦様が説かれたのだから間違いなし、と。これはどちらかと言うと信仰的ですね。それでも、理性が現れるんです。

 

理性と言うのはそういうものですね。基本的なものでね。

 

仏教であろうか、他宗教であろうか、無宗教であろうか、理性が必要なんです。

理性の反対は、感情的と言うことですね。そういわれると、理性とウペッカーは同じではないかと思っちゃうでしょ。なんかムチャ似ていますね(笑)

 

感情的と言うのは主観であって、「オレの気分」なんですね。たとえば、「これは私が嫌だから誰だって嫌でしょう」というのはとんでもない。理性じゃない。ほかには、「みんな言っているんだから正しいんじゃない」というのも、理性が無い。

人間と言うのはなんで頑固な態度をとるのかというと、芯がものすごく弱いからです。臆病なのです。

子供にも、いきなり怒鳴りつけてしゃべったり、そういう周りが頑固だという態度をとる場合は、本人がすごく臆病な人です。頑固であると言うことは、理性を使っていないのです。

 

感情の波があっても、理性を使える場合もあります。たとえば、欲が出て楽しくなると心が波打っています。それでもちょっと理性を使って悪いことをしないで戒める、制御する。そこは理性が制御してくれます。

嘘をつきたくなっちゃったとき。それは欲かもしれません、怒りかもしれません。心になにかエネルギーが生まれているんですね。でも、嘘をつかない、と自分を制御したら、そこで自分を守ってくれたのは理性なんです。客観的に物事を見られる能力ですね、理性と言うのは。主観を捨てて客観的に物事を見られる。

 

仏教と言うのは「実践教」だから、なんでもプラクティスして観察するものなので、信じるものはありません。科学ですから、やってみるしかないんです。

 

人間がやってみやすいように、項目に細かく分かれています。最終合意は同じです。心の煩悩を落とすこと。それで悟りに達する。

 

心を完全にするために、一つ一つ項目を見ながら、何によって置き換えるのか、考える。我々は不善心の塊ですから。貪瞋癡(トンジンチ)で、無明と渇愛でできているので、完全な不善の存在なんですね。だから、不善を捨てようとしても捨てられません。自分を捨てることになる。どうやって捨てますかね。捨てられません。

 

それで置き換えをします。「理性を育ててください」という場合、自分の中の何かと理性が置き換わります。理性でたくさんの物事が置き換わります。客観的に物事を見る、頑固にならない、自分勝手に考えない。そうなってくると、発作的に怒らないし欲を出したり、興奮することもじわじわと消えていく。

 

そういうふうにお釈迦様によって説かれた「解毒剤」というかね。体に入れると、たくさんの悪いものが出て行って、新しいエネルギーに置き換えてしまいます。そういうやり方で、自分直しをするのですね。

そういうことで、ウペッカーなどのたくさんの単語を教えられています。わかりますか?

 

質問者「心の揺れを捨てることは、執着を捨てることですか?」

執着を捨てることのもっとずっと手前ですね。まずは、心の揺れをなくすことから始めます。

心の揺れが無くなったら相当幸せです。でも究極の幸せは一切の執着が無くなったときです。無明と渇愛がきれいさっぱり無くなったときです。それが涅槃解脱です。

幸福は、仏教の実践を始めたら最初からあります。この幸福の量と質をどんどん上げていくことです。

 

β関西活動報告 : 関西月例瞑想会配信について」 Youtube動画で最初から終わりまでよりメモしました。

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*1:

パーリ語仏教用語集『CATU-APPAMANNA-CITTA:慈悲(四無量心)』 http://www.j-theravada.net/pali/key-catu-appamanna-citta.html4 Upekkhâ(ウペッカー) 捨 : 差別のない広々した平等な心でいる優しさ