質問「テーラワーダ仏教と日本の仏教の違いが分かりません。日本の禅宗とどう違うのですか。また、一般の人は瞑想してどこまでいけるものなんですか?」
回答(スマナサーラ長老)
あまり焦らないで、決めつけないで、時間をかけて勉強してみてください。
まず、日本の仏教とテーラワーダ仏教の違いは何なのか? ですが。
日本の仏教は日本の文化に則した宗教で、テーラワーダ仏教は東南アジアの文化に則した宗教です。日本人は宗教に興味が薄くなっていますが、世界はそうじゃないんですね。キリスト教、イスラム教、とか、自分の信仰する宗教は大事にします。
日本仏教は、もともと漢文の経典がありまして、そのなかから一つだけを取り上げて、これこそが素晴らしいと言っています。
たとえば日蓮系というのがありまして、大量の宗派があります。日蓮系の場合は、膨大な経典の中から法華経だけ、本物の教えだと、他はみんな捨てましょうと言っています。
他の経典では、般若心経というのがありまして、禅宗などで取り上げています。
そのように、どの宗派も、特定の経典だけを「これが正しい」と言っています。それがなぜかは、各宗派の方々に質問してください。わたしには聞かないでください(笑)
一つの経典だけが正しくて他の経典がすべて間違っているとするならば、お釈迦様が語ったことの中で、一つだけが正しくて他全部間違っていると言うことです。わたしなら、その一つだけが正しいと信じることはできません。たとえば、40年間嘘ばかり言ってきた人が、ただ一つだけ真実を言ったとして、その一つだけ語った言葉を誰が信じるんでしょうね。
結局、自己矛盾に陥ります。
膨大な経典の中から、一つの経典だけを抜き取って、「これこそが正しい」というならば、その人はお釈迦様より、より優れている知恵をもつということです。そんなことはあり得ません。
わたしは日本に来た当時、いろいろな人から聞かれました。「あなた方の仏教ではどんな経典でしょうか?」と。
それでわたしは、「ええ~??」と。どう答えればいいんでしょうかと、分からなくなっちゃう。
「この経典、という経典はないんですよ。ブッダに説かれたものはそのまま学びますよ」
というと、「へぇ」という反応になります。
なんで信仰するのに経典を選ぶんですかね。どんな基準、どんな能力で?
経典を比較して、これがいいと決めたら、私はブッダより優れた人間ということになっちゃうでしょ。そうなったら信仰は成り立たなくなります。だから恐ろしく矛盾なんです。
大乗仏教と名乗っている方々の中でよくある問題です。
一つだけ選んでそれに引っかかるという。
テーラワーダは何なのかというと、それほど大量な経典ではないんです。ブッダに説かれたという、パーリ語で書かれたものを学びます。
ブッダが完全に語った中から、一つだけ選んでみても、それ自体で完璧です。しかしそれのみが他の経典より優れているということは、決して言えません。
お釈迦様が語ったものは、「経」です。道徳は戒律です。注釈書になると、膨大な量になります。ブッダが語ったことを仏教心理学としてまとめたものが、アビダンマ(アビダルマ)といいまして、それが七つあります。そういうものを、われわれ坊主はできる範囲で全部学びます。
我々が自負しているのは、「お釈迦様の教えをちゃんと実践している」ということです。これは自己自慢になりますけどね。
理由は、参考にしているのはパーリ経典で、お釈迦様が実際に語ったのはパーリ語だからです。しかしスリランカに行ってみると、「これ本当にお釈迦様が語ったことをやっているのか?」というところもあります。
2500年という長い間に、インド文化的なものも入り込んでいます。それでも、パーリ経典のみしかあげません。
次の答えは、ここで私が何を教えているのか?
わたしはミャンマー、タイ、スリランカのテーラワーダ仏教を教えていません。わたしがスリランカ人だからと言って、スリランカ人がやっている宗教を皆さんに押し付けているわけじゃないんです。
わたしたちはこの地球上で、理性ある人々として、「ブッダが本当に何を説かれたのか?」と疑問を持った人に対して答えています。だから、私は純粋にお釈迦様を皆様に紹介しています。
だから、わたしから教わって実践する人々は、日本仏教ではなく、テーラワーダ仏教でもなく、ブッダの教えを実践することになります。
ここで、皆様方は、お釈迦様に説かれたことを学べます。それは、テーラワーダ仏教でもありません。
しかし、いろいろなしきたりを真似てみると、テーラワーダ仏教の要素が入ります。それはお釈迦様の時代から続くものだからね。たとえば、三帰依を唱えて五戒を受け取るとか。五戒を唱えるのは、政治家の選挙演説の前でもやります。しかしいったん演説が始まれば、うそを言いたい放題、人を非難したい放題。いったい何のために五戒を授けるのかと(笑)
だから、そういう文化ではなく、こちらでまじめにやりましょうよ、と。五戒を授けたら、まじめに守ろうとしましょうよ、と。人間だから五戒を破ってしまいますが、そうしたら、またやり直そうよと。宿題を間違えたらもう一度やり直す、と同じことです。
これからはわたしの、脳についての言葉です。大脳新皮質は原始脳に誘拐されています。お釈迦様の教えは、大脳を誘拐犯から解放します。解放されると、「生きていきたい、死にたくない」という強迫観念から逃れて、真理が分かります。物事がありのままに見えてきます。それが解脱ということです。
脳で説明するのは間違いです。生命というのは脳細胞ではないからです。
しかしわたしたちは脳細胞が生命だと勘違いしているので、やむを得ず脳細胞を例に説明しただけです。心というのは生きているエネルギーの元なんです。だから脳神経細胞がなくても生きている生命はたくさんあります。
ですから、「どこまでできるのか?」という質問は成り立ちません。仏教は「科学」ですから。完成された「科学」です。西洋の科学とはずいぶん違います。西洋科学は獣(原始脳)の支配で出来上がったもので、いつだって不完全です。
たとえば医学があるでしょ。我々を健康で長生きさせてくれるはずです。しかし全員が健康で長生きできません。
大脳で考えれば、「わたし」は死ぬものです。しかし、確実に死ぬのに、死にたくないと頑張るのは矛盾でしょ。
花火は美しいものです。でも永久的に夜空に在ってほしいと思うと、矛盾なんです。
バッグも、2千円くらいなら、気にしないで使えます。しかし、30万円のルイヴィトンのバッグを買ってしまうと、大変です。傷がついたら落ち込みます。バッグの奴隷になる。矛盾です。
ほしいものが、便利なはずなものが、自分にとって主人になり、自分が奴隷になる。テレビの奴隷で、パソコンの奴隷で、携帯電話の奴隷で、おもちゃの奴隷です。
それではじーっと寝るだけにしましょう。今度は夢の奴隷になります。
悟りということは、原始脳ではなく、大脳で生きることです。大胆な革命がおこります。
それがどこまでできるかということはあまり問題ではありません。どのくらい頑張れるかです。本人次第です。
皆さんも頑張ってみれば、誰だって完全に悟りに達することができます。
悟りは4段階、脳の開発は4段階です。第一段階に達するだけで、もう原始脳には勝っています。
皆さんには、「預流果(よるか)」に挑戦していただきたいのです。*1
説法で、指導でできるのは、そこまでなんです。そこから 先は自分で頑張るしかありません。
禅宗とテーラワーダ仏教は、基本は同じです。座禅して悟りを得たいという。しかし、ブッダの教えからちょっと外れてしまっています。
日本人にとっては、禅宗で十分でしょうか?という疑問が出てきます。
しかし、お釈迦様から直々に教わったほうがいいでしょ?
(2014年12月23日 東京・法話と実践会よりメモしました)
関連エントリ:
thierrybuddhist.hatenablog.com
*1:参考:
ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析1
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,藤本晃
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