質問
「輪廻転生というのが結局よくわかりません。
輪廻転生がエネルギーの流れであるというのはやっと少しずつわかってきましたが……。前世とか来世とか、なぜ地獄とかがあるのか……。そういうのは証拠のない話かなぁと。
お釈迦様はご覧になられたのだとは思いますが、理解を超えた世界になると、考えることが妄想になるのかなぁとも思ってしまいます」
回答(スマナサーラ長老)
自分の能力範囲で「理解できない」とはっきりしたものに挑戦しても意味がないんです。
人間の理解範囲には入らない話ですから。
魚が陸上のことを経験しよう、理解してやろうと「風はどのように吹くだろうか」と考えることはやめたほうがいいんです。
だからお釈迦様が、そういう人間の知識範囲を超えているものは知らなくても悟りに達せるように教えています。決して、輪廻転生やらそんなことは知る必要は、「条件としては」ないんです。
必要条件は、自分が素直であることと精進努力すること、それで悟りに達します。
そういうわけだから、輪廻転生のことを知らなくても、悟り・解脱には達することはできます。
しかし、悟り・解脱に達する人は、「知る必要があるもの」すべて知るんです。知らずして悟りに達するということはないんです。振り返ってみたら悟っていた、と言ういい加減なことはないんです。
「朝起きたら、わたしは大学に合格していた。びっくり」それはあり得ないでしょう。試験受けた子は合格の可能性がある。今日は合格発表の日だと知っていて、郵便配達で合格の知らせが来たら「合格だぁ」と喜ぶだけで。因果法則の関係があります。
振り返ってみたら悟っていた、という話はないんです。
ちゃんと修行して、「ああ、なるほど」と別に驚きではありませんし、その人はやるべき宿題はちゃんとやっています。知るべきことはちゃんと知っているんです。だから、そういう心配はまず、実践的に言えばあり得ません。
お釈迦様は輪廻の話を、「これは人間が考えることとはちょっと違う」と。インドでも輪廻転生のような考え方はチラチラとありましたけど、お釈迦様は明確に正しく輪廻転生を説明しました。
やっぱり、別な知識能力というか知る能力を育てなくちゃいけないんですね。それがないならば、(輪廻転生については)放っておけばいいんです。
われわれには「輪廻がない」という権利はないし、「輪廻がある」といえば、仏教であると言っているんだからあるんじゃないかと、ただ信じていることにすぎないしね。
しかし、ものは完全に「虚空」というスタンスにはならないんですね。エネルギーですからね。物質と言うエネルギーでしょうし、心はもっとすごいエネルギーでしょう。
変化はするが、「虚空」という「なんもない」というスタンスにはならないんです。
宇宙が破壊して空間になっても、エネルギーはいっぱいあるんです。変化するんです。
そういう流れで輪廻転生を発見していたんです、お釈迦様は。だからわたしの過去とか、そんなふうなレベルでは理解できない。自我意識が消えてしまったところで簡単に分かりやすくなります。何がどのようにつながって変化していくのかが見えてきます。
「自分、自分」という意識が強い場合は、なかなか理解しにくいんです。なぜならば、自分が死んで生まれるわけじゃないからです。
自分というものは今も変わっていくしね。過去の自分、例えば赤ちゃんの時の自分って知らないんです、全く。そこまで、一個の生涯の中ででも、もう過去を忘れているんです。過去を思い出すことさえもできないんです。
だからもし、赤ちゃんの時のことを思い出したければ、ゆっくりと物の変化と一緒にさかのぼっていかなくてはいけないんですね。これはかなり能力が必要です。赤ちゃんでいたことは確かな事実なんですけど、それでも、具体的に知ろうと思ったら大変です、できないくらい。その前、赤ちゃんよりも前を知ることは、ものすごく難しくなるんです。
お釈迦様や他のお坊さん方にもその能力がありましたけど、超越した智慧を開発して、それから調べたデータの結果なんです。お釈迦様には、三明(さんみょう:宿命通・天眼通・漏尽通)*1 と言う智慧がありました。
そのひとつの「宿命通」で、自分の心の流れをさかのぼって過去を見たんです。
論理的に言えばすごい分かりやすい。今の心があるのは過去に心があったからですね。過去っていうのは、「すぐ前の」過去なんです。今の心がなくなると、すぐ次の心が生まれるんです。それで、もっと前の心、前の心、前の心、……と知ってさかのぼっていくんですね。
それでずーーーっと、時間をさかのぼって、さかのぼって、劫単位で。宇宙が破壊されて構成されて、また破壊されて、そういうふうに何度も見ました、きりがなく。そのあと、「このくらいの時間を見てみました」と終わるんですけどね。
それで、「自分にも過去があった。過去の変化は、こうなって、こうなって、こういうふうに起きた」と明確に知ってしまったんですけど、それだけでは科学的にデータにはなりません。
それでお釈迦様は、他の生命の生と死だけを見たんです。いくらでも世の中で死んでいる生命がいる。その生命がどんな心の流れで死んだか、次にどこへ生まれたか、と。この生命は、こうなって、こうなって……。こちらの生命は、こう、こう、……と。そうなると、死んでは現われるという現象が自分だけじゃなくて、すべての生命にもあるんだよ、と。
次に、では、「なんで、死んだらまた現れるのか?」と、そこで渇愛とか無明とかね、真理を発見して最後の三番目の智慧(漏尽通)で悟りに達するんですよ。煩悩がなくなって。これは結構長いプロセスなんです。
お釈迦様はものすごく他とは違う方だからできたんですけど、これは大体ほかの人にはね、挑戦しない方がいい、これは無理、と知っているんです。
こんなことに挑戦しちゃうと、悟れなくなっちゃう。時間、間に合わない。
だから、そういうことっていうのはあまり気にしない方がいいんです。
しかし社会でしゃべる場合は「輪廻がある」と言った方が論理的なんです。
なぜならば、他の宗教では「輪廻がない」と堂々と言っているでしょ。人間には一個しか人生がないんだと。それから、永遠な天国とか、永遠な地獄とか、冗談じゃないだよと。40年くらい生きてから、永遠な判断を受けるのは割に合わないんですね。ちょっと何か間違いが起こっただけで、「あんたは永遠な地獄だ」と、これが屁理屈なんです。
そうじゃなくて、行った悪いことに適した不幸になるでしょう、または、行った善いことに適した幸福になるでしょう、と言った方が論理的なんです。そうなってくると、輪廻転生と言うことは概念として、仮説として成り立つんですね。その方がより優しいんです。人間を応援しています。「頑張ってください、良い人間になるように」
世間では罪を改めなさいと言っても、アダムとイヴが犯した罪をわれわれが改めなくちゃいけないんですね。
世の中では、「わたしが見たわけじゃないけど、輪廻は論理的に言えば可能だよ」と言った方がいいと思いますね。
(自分の「成功比率(苦労:幸福)」、知ってる?【輪廻転生・後編】に続きます)
(関西定例瞑想会 2008.06.15
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/602729.html 音声ファイル:下よりメモしました)
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すべての「説法めも」を読むには:
*1:漏尽通(ろじんつう)=煩悩の滅尽(めつじん)