ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

サマタとヴィパッサナーで抜け出す5つの束縛

質問

「人間は肉体的な制限はあるんだけれども、こころの制限は外してあるという、長老の法話が以前ありました。アビダンマでは、眼耳鼻舌身の五門で悪業を受けるが、意門では受けないと聞きました。ということは、悪業がきても、こころの力次第で悪業を受けないこともできるということですか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

眼耳鼻舌身で悪業をはじめ、あらゆる業を受けています。理由はいたって簡単で、生まれるときの業が眼耳鼻舌身「意」(げんにびぜっしんい)を作るんですね。意は、もう生まれた、という意ですから、今度は意が、体を作らなくちゃあかんですね。だから、こころは自分が追っている財産で、眼耳鼻舌身を作るんですね。そうすると、目で見るものはすべて、過去の業の結果になる。耳で聞くものはすべて過去の業の結果になる。舌で味合うものも、体で感じるものすべてが過去の業の結果になってくるんですね。

 

それはおかしいと感じるかもしれませんが、そんなことはないんです。ときどき、家にご飯があっても食べられない日がある。美しいコンサートに行きたいなと、チケットも買っていたのに行けなくなることもある。それって管理できないんです。電車で、今度こそ座っていくぞと、あまり混んでない時間を狙っていったのに、やっぱり満席だったということもある。

だから、それってわからないんですね。業なんです。

 

それから、われわれは生まれつき、いろいろ欠点を持って生まれちゃうんですね。仕方がないんですね。科学者は遺伝子だと言っていますけどね、業なんです。遺伝的だといっても、遺伝子も変えられますからね。

 

そこでポイントは、肉体は物体だからね、結局は。例えば、眼で、すごく怖いものを見て精神的に悩む羽目になった、と。見たものによって。悪業ですね。しかし、悩むのは誰ですかというと、眼ではありませんね。こころです。

 

お腹が空いていて食べたところで、まるっきり口に合わなくて、もう苦労して仕方がなく食べたら気持ちが悪い。悪業なんです。しかし、舌にとってはどうってことない、かんだものの味を伝達するだけで終わっているんです。それで苦しみを味わうのはこころです。

 

だから眼耳鼻舌身から得る情報を、意門で、意識で受け取って、悩み苦しむ・楽しみ興奮感が生まれるんです。

というわけで、業を作るのもこころで、業の結果を受けるのもこころになるんです、最終的には。

 

動物には、眼耳鼻舌身の情報を乗り越えることは不可能です。わたしたちにとっては、乗り越えることが可能です。たとえば、気持ち悪い嫌なものを見ても、「まぁ、別に、普通じゃない?」と気持ちを変えることができます。ゴキブリを見ただけで「あっ、イヤッ!」と思う人も、「別にただの生命でしょう」と気持ちを変えることができます。だからリミットを乗り越えるために、努力が必要です。

 

ゴキブリを見て「嫌だ」と思う人も、冷静に「ゴキブリの色はこれで、形はこうで、足はこうなっていて……」と観察することができるようになります。さらに、「生命ですからね。生きていきたいと思っているでしょうね、この子も。恐怖感もあるでしょうね」と思っちゃうと、慈しみまで生まれます。

 

皆さまが飼っている猫はやっていないかもしれませんが、頭のいい猫だったら、ゴキブリを見たとたん、パシッとやっちゃうんですね。そこはコントロールできないんです。「ゴキブリも同じ仲間だから、放っておこう」とはできない。

 

そういうことで、意が業の結果を作って、悩み苦しみを体から受けるんです。データ処理は意でやるんです。データ処理のときは善し悪しに分けます。

 

飴がありますね。普通、飴はおいしいなと思うでしょうが、わたしが飴をなめてもおいしくないんです。甘さは感じます。飴がなめたいな、という気持ちは起きません。よっぽどの場合、たとえば子供達からたまにもらったりしたとき、仕方がなくなめますけど。これは、わたしとほかの方々の業の差なんです。

うどん食べて「おいしい」と思う人も、そば食べて「おいしい」と思う人もいろいろいます。そういうふうに微妙に、個人の世界が変わります。それぞれ人によって好みが違うんです。それは業の働きなんですよ。

 

わたしの親せきでちっちゃな子がいて、その子はご飯を一粒も食べません。スリランカはご飯を食べる文化ですけれど。別にアレルギーがあるわけじゃないのに、あの子は食べませんね。そこで、わたしたちの言語では、一粒は「ひとくち」という意味もあります。そこでわたしの姉がその子に、「ご飯一粒でも食べたらありがたいなぁ」と言ったんです。その子にとって、わたしの姉はおばあちゃんで、おばあちゃんには逆らえないから、その子はちゃんと一粒だけ取って食べて、「食べましたからね!」と。姉は「ひとくち」食べてほしい、という意味でいったんだけど、あの子は言葉通りにとって、「一粒」食べたんです(笑)。

その子はその子の好みがあって、どうしようもないでしょう。

 

そういうことで、眼耳鼻舌身の業というのは、それぞれの人によって、プライバシーがあります。業はプライベートなんですね。自分の業は他人とは関係がありません。一応、種がいい環境ではよく成長するような感じで、自分の業も、環境によって悪業に成長するか善業に成長するかわかりません。たとえば、環境を変えることで、不幸にならないようにすることもできます。

 

たとえば、イラクとかシリアとか、ISISが活動しているところに行ったらどうなる? もしかすると殺されるかもね。日本にいたら絶対あり得ないんですね。ということは、過去で自分が突然殺される業もありますけど、平和な日本にいる場合はほとんど突然殺されるということはない。ところが、あちらに行ったところで、ひどい目に合わされて首を切られるということもあり得ますね。眼耳鼻舌身だからね、環境に影響を受けます。

 

それで、こころにとっては、悪で受けるか善で受けるかという選択も可能です。たとえば、自分がすごく叱られるタイプで、何をやっても叱られる。それでドンドン落ち込んでいく。それは決まっているプログラムだとする。そこでちょっと頑張って精進して、「毎日のこっちゃだからね、こんなもので落ち込んだら人生はやっていけませんから、落ち込まないようにしようかな。じゃあ、言いたい放題言わせてあげます」と決めたら、それまであったこころの苦しみがなくなります。叱られるんだけど、悩まないことにしている。そこは新たな善行為をつくることもできるし、悪業が働けなくなっているんですね。そういうふうにこころを自由にすることができます。

 

しかし、派手に眼耳鼻舌身の影響を受けているということを理解しなきゃあかんです。だって眼耳鼻舌身がビシッとしがみついて、こころが上に行かないようにしているんです。われわれは耳のリミットを越えられない。われわれのこころが、捕まえられているんです、五つの束縛で。

 

そこで冥想する人が成長したということは、五つの束縛から、抜け出すことです。禅定が、それで生まれます。ヴィパッサナー実践の場合も、肉体の束縛を遮断しない限り、上には行けないんです。だから冥想をやっている場合はできるだけ、ここ(肉体)を関係ないことにして頑張ってはいます。

 

 

東京法話と実践会 2015.10.25

http://www.ustream.tv/recorded/76180966

(最終質問よりメモしました)

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