(長老のカウンセリング方法-戒律(8)から続きます)
そこで、「おもしろい」ということが人間にはないんです。
だから、頭で考えておもしろいものを探す。
しかし「OS」が間違っているんだから、みんなダメになっちゃうんです。
酒を飲んだらおもしろいと、ギャンブルをやったらおもしろいと、麻薬をやったらおもしろいと。
子供だったら、ゲームをやったらおもしろい、携帯で友達を侮辱していじめたらおもしろい、そうやっておもしろいことを探しているんですよ。すべて悪いこと、自己破壊です。
戒定慧(かいじょうえ)の「定」、サマーディっていうのは、おもしろいっていうことをトレーニングするんです。だから、つまらない仏教用語でいえば、集中力なんですね。それで気分がいい方々もいるかもしれないんだけど、わたしは気分が悪いですね。そんなことで知ったかぶりをやっちゃうと。
これが、「おもしろい」という精神的な状態、興味、好奇心があったら、人間は成長するでしょう。好奇心がいらないと言える? しかし、もともと好奇心がないようにできているんです。勉強できないように。
そこで仏教は二番目のトレーニングをする。好奇心。おもしろさを探す。おもしろさを追っかけて行ったら訓練じゃないんです。おいしいものを食べるのはおもしろい、あの遊園地に行ったらおもしろい、というのはトレーニングになりません。
そうではなくて、たとえば金属の器を取る。これって何かおもしろいでしょうか? そうやって見たら、発見しますよ。なんでもいいんです。鉛筆でもいいんです。この鉛筆を観察しながら、何かおもしろさを見つけるぞと。そこで一般的には、鉛筆にしっかりと集中するだけなんです。色やらカタチやらいろんな部分を見ると、いろんなものを発見できる。
派手にでっかい花でなくても、ちっちゃな花を見て、「これってどんなものか?」と。そうやって見ると、そのなかですごい世界が見えてくるんです。小さな花なのに完璧にできていて、自分の存在感をしっかり持っていて、自分の義務をしっかり果たしていて、立派な花なんですね。草むらにある、ほんの小さな花を見ても、ビックリして、何か発見する。そこら辺にあるキノコを見ても、いろんなものを発見できる。アリ一匹が迷子になってそこら辺をトコトコトコトコ……歩いているのを見ても、いろいろとわかってくる。アリの怯えや不安や困っていることやらね。
こういうことってすごくおもしろいでしょう? それっていうのは、ある一つの能力なんです。いつだってすごく楽しい気分でいられる。何もいらん、特別なものは。ただなんかじーっと集中してみるだけ。音でもいいんです。ずっと集中して聞いてみると、おもしろくなってくる。今は歳のせいで耳がちょっとうまくない気がしますけど、でも聞こうとすれば、いろんなものが聞こえます。集中しちゃうと、うるさくってしょうがないくらい、音が聞こえる。
では、全部聞かないで一つ選んで聞くということをするんです。そういうことをすれば、別に特別なものはいらんでしょう。楽しくなろうと思っちゃえば。ずっと座っていればいいんだから。
定は、サマーディと言うのは、集中力を育てる訓練なんです。もともと集中力がないんだから、おもしろいものを追っかけて行くんですね。それで自己破壊するんです。白いご飯はおもしろくない。だからいろいろなものをかけて食べる。イカの塩辛とか。塩辛は、人間の舌で感じられる味ではないんです。あまりにも強烈で。
ただの白いご飯を口に入れて、ただ味わってみると、「なるほど、ご飯もご飯なりに、自分の存在を持っているんだ」と。ご飯は自分の味を持っているんだと。口に入れるたびに、そのご飯が別の存在だからね。それぞれが自分の味を持っているんです。まとめて二十キロのお米を買ったんだから同じ味だというのは、とんでもない話ですよ。米一粒一粒が別々の存在だから。それぞれが自分の味を持っているんです。それを発見すればいい。
だから、特別な能力があれば、この世の中で何かできないことがあると思う? なんでもできます。酒を飲んだり麻薬をやったりする必要はないんです。家にいると退屈だからどこかに行こうか、というのはないんです。どこにいてもおもしろくいられます。
(次回慧のトレーニング-戒律(10)は最終回です)
<スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2014.05.06
https://www.youtube.com/watch?v=q0uaJAGnjXI
35:00~より書きました。>