質問
「歩く冥想をしております。
教えていただいたようにしようと思いまして、ちゃんと、右足上げます、運びます、下ろします、左足上げます、運びます、下ろします、とやり始めております。
そこで、起こったことは、自分の観察と体の動きの一致を観るということは、人生でやったことはなかった、日常ではやったことがなかった、ということをしみじみ思いました。
そこで質問なんですが、その人生で初めてのことをやっております。
どうも大変です。ていうか、どうしてもうまくいかない。うまくいかないときが多い。
それでもやっていく、というのは良いのか?
先生が良いとおっしゃっている、お釈迦様が良いとおっしゃっているんだから、と思っておりますが、大乗仏教で言うような『一瞬でこころが静かになる』ような冥想ではございません。
こころがコントロールできない、なんとかしよう、そういうパニックの状態で一時間過ごしております。
それでよろしいのか、よろしいはずだと思いますが、先生に聞こうと思って今日は参りました」
回答(スマナサーラ長老)
それでも仕方がないと思ってね、頑張ってください。
「よろしい」という言葉ではなくってね。
それでも仕方がない、やらなくては、ということでやってみてください。
「よろしい」という単語はよくない。
それは「合格」というハンコを押したことですからね。まあ仕方がない、とそうすると、もう少し頑張らなくちゃという気持ちも入っているでしょう。
言葉選びは気をつけなくちゃいけない。
人にしゃべっているときだけじゃなくて、自分で考えるときも言葉も、自分の人生を変えますから、「これでいいや」と思っちゃうと自分で合格ハンコを押しているんですね。そうすると、進む必要がなくなっちゃうんですね。
質問者
「もっとこころを落ち着けたいと思っています」
だから頑張ってみてください。
次のところが、ジワジワと見えてきます。
なんでうまくいかないんですかと。ただ足を上げる、下ろすだけなのに、こんな極端にシンプルなことができないんですかと。
そこを発見しなくちゃいけない。
結構成長しないと、大変な宿題だと思いますけどね。
答えを言いますけど、自我が割り込んでいる。
自我って、錯覚・妄想・幻覚。その幻覚が割り込んで、幻覚に導かれている世界に、いわゆる存在しない妄想の世界に行こう、行こうとしているんです。
仏教用語でいえば、すごく巨大な森の中に住んでいるある野生の動物を、いきなり掴まえてきて、街で離してみるような感じなんです。
全く落ち着かないんです。森に戻りたくて。それで暴れ回っちゃう。
歩く冥想を始めちゃうと、こころが、野生のこころが、ちょっと文化社会に入っちゃって居心地が悪くて、野生に戻りたい、野生に戻りたい、という戦いをやっているんです。
やり続ければ、野生よりこちらの方がいいやと納得がいくんです。
頑張ってください。
<東京法話と実践会 2016.03.13
http://www.ustream.tv/recorded/84412689
30:00頃より書きました。>
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