仏道に性別は無い――仏教徒の模範となった在家女性聖者の物語(増支部7集「ナンダ母経」を読む)|スマナサーラ長老のパーリ経典解説
上記は、スマナサーラ長老が経典に出てくる女性の聖者のエピソードを解説した法話です。
「仏道に性別はない」とわざわざ言わなくてはならないのは、仏教戒律には性別が厳然とあるのです。
当時のインド社会では男性である比丘の庇護なく、女性の比丘尼が生活するのは危険だったので、女性の安全を守る上でそうした戒律が必要だったそうです。
インドは今でも女性だけで人が少ない場所へ行くのは危険なので、当時はもっと状況が厳しかったことでしょう。
そういう現実的な問題に対応した戒律を釈迦牟尼ブッダが制定し、比丘尼サンガが生まれましたが、それもいつしか途絶えてしまいました。
出家サンガは人から人へ伝承していくという方法を取っているので、伝承に必要な人数の比丘や比丘尼がいなくなってしまったら、復活の方法が原則ないのだそうです。
現在世界各地にいらっしゃる「比丘尼」は、そういうことで正式には存在しないということになってしまっています。
理論的には比丘尼サンガが再び現れる可能性はないのですが、最初にご紹介したスマナサーラ長老の法話では、一発逆転のウルトラCが繰り出されています。
ご興味があれば動画で28:00あたりから聴いてみてください。
仏道に性別はない、というか「ブッダ(阿羅漢)には性別はない」ということです。
悟るまでは性別がありますが、最終的に悟ったら(阿羅漢になったら)性別は関係がなくなるということですね。
という韓国社会の女性差別がテーマの小説が大ヒットし、最近まで日本でも映画が公開されていました。
世界中で程度の違いはあれど、女性差別がない地域はありません。
トランスジェンダーがテーマの映画
などなど観ると、性別による苦しみというのは、人間の思考の世界の産物だという気がしてなりません。
1970年代のアメリカ社会では同性愛者だという理由で、検事が職を追われています。(チョコレートドーナツ)
真理ではない思考の産物は、時代によってその姿を変えるのです。
性差別だけではなく、人種差別、社会的階層の差別、差別というのはすべて人が勝手に作り出す感情の澱(おり)で出来上がっているのだと感じました。
その澱をすべてきれいに掬い出した人が、阿羅漢=性別のない人、ということになるのでしょう。