ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

【智慧の扉】「足るを知る」とは パティパダー2022年11月号

【智慧の扉】「足るを知る」とは パティパダー2022年11月号

A.スマナサーラ

 

お釈迦様は「足るを知る(知足)」という生き方を推奨しています。パーリ語でsantuṭṭhi【サントゥッティ】と呼ばれる知足については、難しく考えず、ごくごくシンプルに理解して欲しいのです。

 

私たちが「今の瞬間」で得られるものには限りがあります。

例えば、私が喋っている今の瞬間、皆さんの耳には否応なしに私の声が入っています。それは自然法則です。知足を知らない人が、「この音は嫌だ。音楽を聴きたい」と思っても、今の瞬間でそれは無理です。ただ、「もっと良い音を聴きたかったのに。こんな音を聴いている私は不幸な存在だ」と、悩むはめになります。瞬間瞬間に触れる・感じる・経験する物事を好き勝手に変えることはできません。私の声ではなく音楽を聴きたい人は、別な瞬間に音楽を聴くことにするのです。しかし、今の瞬間には無理です。別な時間で、好きなことを経験できるように工夫することができても、今の瞬間では、好き勝手な変化はできません。ですから、知性のある人は、知足を実行します。

 

ブッダが説かれた「知足」とは、自然法則に従って生きることなのです。

自然法則の中では、瞬間ごとに自分に触れているものを取り入れるしかないのです。その触れているものに対して、自分が嫌だと思ったところで仕方がありません。今の瞬間に呼吸することで取り込むのは、自分の周りの空気です。今の瞬間で肌に感じるのは、自分がいる空間の温度です。「もっと暖かい温度がよかったのに」「もっと乾いた空気が好きなのに」など、無い物ねだりをするのは世間では一般的かもしれませんが、それは私たちの「病気」だと考えた方が正しいのです。

 

 今すぐ出かけようとタクシーを呼ぼうとしたら、混んでいて十五分待ちということがあります。

それなら駅まで徒歩十分だから頑張って歩こう、と思い直すことも知足なのです。また別の日には、お腹が空いて何か食べようと思ったら家にはご飯しかない、という時もあるでしょう。がっかりして「焼肉が食べたいな」「納豆でもあればよかったのに」と妄想しますか? もし白いご飯しかなかったらそれを食べて、「はい、ご馳走様」と食事を終えればよいのです。いたって単純なことです。今の瞬間に自分が感じたものは、眼耳鼻舌身意にすでに触れてしまっているものです。それに文句を言っても意味がありません。「だったら仕方がない」と対応するだけのことです。

 

 これは何でもかんでも「仕方がない」と受け入れることではありません。

例えば、自分が座っている椅子にトゲがあったらお尻が痛いでしょう。その場合は、他の椅子に移動したり椅子を取り替えたりしても問題ありません。もし取り替えられる椅子が他にないときや、もう満席でトゲのある椅子しか空いていなかったら、そのトゲの上にタオルを置いたり、トゲにおしりがあたらないように浅く腰掛けたり、何とか工夫すれば良いのです。

 

 このような例を参考にしながら、日常生活のなかで「足るを知る」生き方を実践してみ

て下さい。

(了)

 

 

 

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