日本テーラワーダ仏教協会(以下、仏教協会)の前会長である松井さんが先日亡くなったという知らせを聞いた。
松井さんは昨年までの10年間にわたって会長職を務められていた。このブッダラボブログは2014年9月から2017年前半までの約3年間、ほぼ毎日スマナサーラ長老の法話を記事にして更新していた。これは私がフランスから帰国して次にインドへ引っ越すまで、仏教活動が最もアグレッシブだった時期と重なる。そのころは仏教協会のイベントにも都内や関西へ行き参加していた。松井さんはその時期に会長さんだったので、イベントを指揮する姿をいつも拝見していた。
でも一番印象深いのは壇上で挨拶をする松井さんの姿ではなく、ある意外な一面だった。
東京ゴータミー精舎でのウェーサーカ祭か、カティナ法要の時だったと思う。昼食は皆がお布施として持ち寄った食べ物を、参加者もバイキング方式でいただいた。珍しいご馳走料理の数々が並び、各自があれもこれもと大きな紙皿に盛り付けて食べた。広くない室内では座る場所を確保するのがなかなか大変だった。絨毯の床に車座で座ったり階段に座ったり、玄関の方まで座り込んで食べている人もいた。すぐそこに履き物が並んでいる所で食事している人の顔をチラッと見たら、なんと松井会長だった。会長さんなのだから階上でテーブルについて食べているのだろうと思っていた。しかし実際は皆が一番避ける場所で床に胡座をかき、若い男性と談笑しながら食事を取っていたのだ。
その後2019年、サンガ出版主催の、スマナサーラ長老と行くインド仏跡巡りツアーで再び松井会長にお目にかかった。当時私はインドに住んでいたのでデリーから合流した。
その旅行中、松井さんが若い頃にバーラーナシーの日本寺に滞在していた話を聞いた。テーラワーダ仏教協会の会長さんをやられていたくらいなのだからよく考えたら驚くことではないのに、松井さんが昔インドに惹かれて長期滞在していたということがピンと来なかった。それほど私にとっての松井さんのイメージは、混沌としたインドへ自ら赴くようには見えなかったのだと思う。
そういう個人的な話を聞いたのも、そのツアーに一人で参加したような「無所属グループ」に松井さんや自分がいたからだった。たまたま隣り合ったときにポツリポツリと話をしたのだ。会長さんなのに先陣グループにいないのも意外だった。
その後私はインド滞在期間を終え再び帰国するも、日本は新型コロナウィルスで覆い尽くされていた。仏教協会のイベント会場での参加は難しかったが、イベントの中継がYouTubeで安定して配信されるようになった。松井さんが昨年に会長職を辞したこともYouTube配信かパティパダーで知った。
ハシモトさんが亡くなったのは一昨年だったと思う。
ハシモトさんは長きにわたって仏教協会会員で、小柄ながら「声の大きい」女性だった。その声の大きさに助けられたことがあった。現在改築工事中の熱海仏教学舎で、ヤサ長老による瞑想合宿に参加したことがあった。熱海仏教学舎の食事は格別だ。それは台所で心を込めて手作りされた料理ということも要因だろう。合宿参加者が無言行で修行を行う中、ハシモトさんもスタッフとして調理に参加されていた。
合宿が終わり身支度を終えると、仏教学舎の本棚にあった昔の施本が目に留まった。「テーリー・ガーターに聴くブッダのことば」というタイトルで、江原道子さんという著者が尼僧偈を解説したものだった。2007年発行の配布し終えた施本なので仏教学舎に予備はないということだった。
するとハシモトさんから、「あなた、その本欲しいの?」と突然聞かれた。ハシモトさんとは初対面だった。「それならあたしの、あげるわよ」いやいや、それは申し訳ないです……「多分、家にまだ何冊かあったから。配ろうと思って」
だがハシモトさんの家には一冊も残っておらず、ほうぼうに声をかけてくれた結果、後日私の手元に一冊届くことになった。「声が大きい」とは影響力の大きさのこと。ハシモトさんが動いてくれたおかげで私は、解脱に達した女性阿羅漢方の心境を「テーリーガーター」で読むことができた。一昨年にハシモトさんが亡くなったと聞いた瞬間、ハシモトさんが一冊のテーリーガーターを工面してくれたこと、その法施の記憶が蘇った。
松井さんとハシモトさんから受けた生前の恩に感謝して、生きとし生けるもの全てに功徳回向したい。
どうぞ、幸せでありますように。