ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2023年10月号 智慧の扉 すべての煩悩の親 A .スマナサーラ

煩悩には、〈無明〉という親がいます。そして無明には、自ら生み出した数多くの子供たちがいるのです。煩悩は千五百あると言われますが、それらは皆、無明の子供たちです。すべての煩悩の親である無明は、発見することが大変難しいのです。ヴィパッサナー瞑想以外で見つけ出すことはほとんど不可能と言っても良いでしょう。

無明を見つけられないことは、「瞑想が進まない」と多くの人が悩む原因にもなっています。実は、皆さんは無明のせいで、幻覚の中に浸りながら、瞑想が進むことを期待しているのです。残念なことに、仏教の勧めるヴィパッサナー瞑想は、「幻覚は成り立たない」と確認する作業なのです。瞑想する人も陥っている「幻覚の中で生きたい」という希望とは、真っ向から対立します。結局、アベコベな期待が叶わないことを嘆いて、「瞑想は難しいのだ」と感じてしまうのです。このカラクリがわかれば、仏教の瞑想は大変シンプルにできていることが理解できます。無明に気づかないがために、苦労して瞑想をしていたことがわかるのです。

ここで一つ、無明を発見するためのヒントをお話しましょう。皆さんが瞑想を続けていると、「現象とは心次第である」と気づくはずです。例えば、心の状態によって、やる気が起きたり、起きなかったりします。仮にやる気が出たとしても、そのやる気にも常に波があって、強くなったり弱くなったりします。やる気が本当に高まった瞬間は、実況中継がうまくいきます。反対に、やる気が減ってくると、瞑想できない言いわけを探し始めます。「体が痛むから瞑想できない」「妄想がひどく割り込むから続けられない」云々とさまざまな理由を付けますが、何かのきっかけで再びやる気の波が高くなると、そんなことは忘れて瞑想を続けるのです。しっかり時間を取って瞑想しようとしたのに、なかなか集中できない場合もあります。反対に、疲れてヘトヘトな状態なのに、一旦始めたらすんなりと心の安穏を作れる場合もあるのです。このように、日々の瞑想を通して、現象とは心次第である、という真理がわかってくると思います。

心次第で移ろう現象は、当てにならないものです。瞑想で、リラックスして落ち着いた状態を作ることに成功しても、安心はできません。今度は「期待」という欲の煩悩が首をもたげてくるのです。「また、あの落ち着いた状態に浸りたい」という期待を持って瞑想したら、心は欲の煩悩で汚れているので、うまくいきません。瞑想とは、欲を離れる作業だからです。またしても、アベコベな願望が叶わないことを嘆いて、「瞑想は難しいのだ」と感じてしまうのです。このように、瞑想するときの複雑な心のカラクリを一つ一つ客観的にみることで、全体的に真理がわかってきます。真理の発見とは即ち、すべての煩悩の親である〈無明〉の発見でもあるのです。(了)