ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2023年11月号【智慧の扉】仏教とは観察です A .スマナサーラ

 仏教は宗教ではないと言うと、首を傾げる方々がいます。しかし、仏教のボキャブラリーには、宗教の世界の常套句である「信じましょう」「祈りましょう」は存在しないのです。その代わりに、しつこいほど繰り返して、「観察しましょう」と教えています。観察とは、科学研究の方法でもありますから、それを宗教だとみなす人はいないでしょう。昆虫学者が昆虫を観察するように、仏教の場合は自分を観察するのです。

 

自分を観察するには、まず雑事を離れて体の動きを観察します。歩くこと、食べること、そうした体のシンプルな行為をただ観察するのです。そのとき判断することは禁止です。例えば、体を観察しているとき「足が痛い」と感じたとします。しかし「痛い」とは判断です。そこで「痛み」と観察します。仏教の実践が厳しいと感じるのは、この「判断禁止」が原因です。観察では「良い・悪い」などの判断なしに事実のみ取り上げます。体の動きは大変シンプルなので、しばらく歩く瞑想をすると、体の行為の観察データが十分に収集できます。そこで自動的に次のステップに進むことになります。

 

次のステップでは、認識の流れを観察します。体の動きと共に認識が流れていることを見るのです。すると、怒りや欲などの感情の働きが体の行為を促していると発見します。また、判断するときは、その直前に感情が起こって認識した結果だと見えてくるのです。例えば、喋っているときでも様々な煩悩が感情バイアスとなり、認識を変化させて判断を下しているとわかってきます。こうして、感覚と概念、そして衝動が認識を変えているのだと知るのです。この流れは光の速度よりも速いので、普段はなかなか気づけません。それが瞑想実践によって観察可能になります。

 

そこで「感情が、自分の希望に合わせて認識を変えるのであって、事実をそのまま認識させているわけではない」と理解できるようになるのです。例えば、同じ風景を見ていても、怒りや落ち込みなどの感情で見ると「さびれた田舎だ」と思い、欲の感情で見ると「自然いっぱいで気持ちがいい」と思います。しかし、どちらも感情の気まぐれによる判断で、風景そのものはどちらでもないのです。

 

このように体の動き、認識の流れをとおして、心の動きを観察し続けます。この観察を、「あらゆる判断は、実は必要ないものなのだ」とわかるところまで頑張ってほしいのです。やがて、ブッダの瞑想とは「判断禁止」ではなく「判断不要」の実践であったことに気づきます。判断しないことほど心穏やかになることはない、と実感できます。このように、自分自身を観察することで、生命の次元を乗り越えた安穏が顕れるのです。(了)

 

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