ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

【パティパダー2024年2月号特別掲載】お布施の心理学 スマナサーラ長老

この法話は、スマナサーラ長老の「2023年11月12日 ゴータミー精舎カティナ衣法要記念法話」より編集したもので、

パティパダ−2024年2月号に特別掲載されました。(パティパダーは日本テーラワーダ仏教協会の月刊誌です)

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ブッダが説かれた善行為の中に、お布施というものがあります。宗教的な意味ではなく、仏教心理学に基づいて「布施とは何なのか」と理解することが大切です。そこで今回は仏教心理学から分析して、お布施の本質をお話ししましょう。

 

心と身体とは何か

まず私たちの心と身体とは何かと、簡単に説明します。全ての生命の心は、「認識する」ことだけ行なっています。心は何か対象を認識するために、認識器官を自ら選んだり作ったりしています。私たちの、この身体を作ったのは心です。これは現代医学とは違った考えなので、違和感をおぼえる方もいるかもしれません。現代の医学では、人の受精卵は最初の二週間くらいまでは細胞分裂するだけの塊であると考えられ、まだ人間としての自覚がないとされています。つまり今の科学は、肉体が現れるのが先で、その後に心が働き始めるという見方をしています。仏教は正反対で、心が先にあって肉体が次に現れると説きます。心が細胞に入り込んで、これを生かしているというわけです。そんなはずはないと思われるかもしれませんが、実はこの考え方で生命のいくつかの謎に答えを出せます。例えば同じ親の子供であっても、それぞれ違った個性があります。同じ親を持つなら、物理的に子供たちは同じ遺伝子のコピーのはずですね? にもかかわらず、決して同じ人間には成長しません。これはどういう事かと明らかにしようと、生物学者が現在も大変苦労しています。子供たちは両親の染色体を半分ずつ合体して、一個の細胞として現れるので、兄弟なら元々は同じ細胞として出現するのです。しかし細胞組織が分裂を繰り返し大きくなっていく過程で、異なった人間として育っていきます。例えば兄弟のうち上の子は健康に問題がなくても、下の子は大変病弱な身体を持つケースもあります。また、兄弟のうち一人は学業成績が極めて優秀である一方、他の兄弟は至って普通の成績だということもあります。病気を例に取っても、兄弟間で同じ病いに罹るわけではないのです。例えば、家族の一人がインフルエンザに感染したら、同居ならばたいてい家族全員が感染してしまいます。しかし同じウィルスに感染しても、現れる症状は家族一人一人が違います。家族間で、重症になる人も軽症で済む人もいるのです。一つの細胞を分かち合った一卵性双生児の場合でも、それぞれ別の個性を持つ人間として大きくなっていきます。つまり、一卵性双生児のように似通ってはいても、まるっきり同じ生命は世に存在しないということです。これはどういうことなのかというと、お釈迦様の答えは「心、つまりviññāṇa【ヴィンニャーナ】(認識)が先にあり、それから身体と感覚の分野が現れてくるのだ」というものでした。もともと心は一つ一つが異なった個性を持つので、その心が作り出す肉体もまた他人と異なる性質が現れてくるというわけです。ただし、心そのものの働きは何かと調べると、どんな生命の心も共通して「認識する」働きだけだと言えるのです。

 

心の認識する働きとは

それでは、心の認識する働きを掘り下げて考えてみましょう。心は非常に速く変化しながら、物事を認識しています。認識する対象の物も心も、常に変化し続ける「無常」の性質があるからです。もし心が素早く認識することができずに、ゆっくりと認識するならば、一日の大半を寝ている生命体になります。例えば動物たちが、一日中ほとんど寝ているのはそのためです。心が瞬時に対象を認識しないということは、心の認識する力が弱い表れです。心の無常の流れはどの生命体もスピードは同じですが、何らかの対象を見て、それを理解してから反応するという時、生命体によってそれぞれ違う結果になります。例えばヘビなどは、周囲の環境が少しでも変わった途端、いきなり怯えてしまって攻撃しようとします。これはヘビの心が、攻撃すべきかどうかと、周辺の様子を調べるほどのパワーがないからです。このように心の認識力には強弱があります。つまりヘビのように周囲の環境の全体像を認識できずに、一部のみ認識できたところで反応をする心は、比較的弱い類いだと言えるのです。人間の心も一人一人の心の流れが、弱かったり強かったりとそれぞれ違います。一つの生命には、それぞれ一個の心があります。今回の本題に入る前に、まずそのことを知っておいてください。形而上学的な考えを持つ人は、一つの大きな親の心があり、そこから心は分散されて各生命が現れるのだから、親元は皆同じだと主張します。しかしこれは何の証拠もありません。もし、同じ親元の心(universal consciousness)から 個人的な認識(individual consciousness)が現れるならば、個人的な認識は皆同じになるはずですが、実際は違います。このような哲学的思考は世の中に数多くありますので、惑わされないように注意が必要です。

 

認識器官に依存する心

心は対象を認識するために、さまざまな認識器官に依存します。もし依存できないならば認識することもできなくなってしまって、「これはまずい!」と恐怖感が起こるのです。これは心の無智によるもので、実際は認識器官を通さなくても認識は起きます。心は無限に生滅しながら回転し続け、認識を止めることはないのです。しかし心自体が、そうした自分自身の法則を理解していません。

 

刺激を追い求める心

私たちは自己をよく観察すると、ずっと刺激を追い求めていることがわかります。もし刺激がなければ、気分が落ち込み、退屈になってつまらなく感じてしまうのです。一例として、料理とはどういうものか考えてみましょう。人間以外全ての生命は、自然界の物にほとんど何も手を加えず食べています。各生命の食糧は自然界にあり、それを取ってそのまま直接食べているのです。鳥が「今回は塩焼きにしよう」と獲った魚を味付けする様子を一度でも見た事がありません。また、コアラなど葉っぱを食べる動物たちが「ちょっとドレッシングでもかけようかな」と調味料を探すことはしません。しかし人間だけが魚に塩を振って焼いて食べることを好みます。身体の健康を考えると、良い方法とは言えないにもかかわらずです。たいていの人は、「魚を調味料なしで食べたくない」と思っています。その理由を考えたことがありますか? それは、刺激が少ないからなのです。「味気ない」という言葉がありますが、文字通り「味がない」ことを私たちはネガティブに感じるのです。このように、人間は食べるときも刺激を求めて行動しています。また、鳥たちは自らの声でさまざまに鳴きますが、楽器は使いません。一羽の鳥が歌って、もう一羽の鳥が楽器を合わせてみようとはしません。人間はどうでしょうか? オーケストラ、バンドなどで、色々な楽器を持ち寄って合奏します。これは音による刺激を追い求めた結果です。しかし先ほども言いましたが、実際のところ心は、あえて苦労をして認識しようと頑張らなくても、法則的に絶えず対象を認識し続けています。それなのになぜ、認識対象を次々と変えて強い刺激を求めているのかというと、心に無智が絶え間なく働いているせいなのです。これを仏教用語で「無明」と呼びます。

 

無明と執着

無明ゆえに刺激を漁り、刺激を自分に与える物に、心はさらにとんでもない事をします。今度は執着するのです。刺激を与えてくれる物を、自分の所有物だと思い込んで粘着します。例えば、耳に刺激を与えようと、ある人がバイオリンを手に取ります。その人は苦労しながら練習し、バイオリンを演奏できる能力を身につけるまでに至ります。このときバイオリンに対して大きな執着が発生しています。バイオリンという物体に執着し、「この私が長い時間をかけて調整したバイオリンでないと演奏できません」という状況になることもあります。本来なら、どのバイオリンでも演奏できるようになった方が、本人にとって楽なはずです。しかし無明の心は対象に執着したいので、それと引き換えに心の自由を失っていくのです。このように生命体の中でも人間が、他の生命体より大きな刺激を求め、比例して大きな執着を持つ羽目に陥っています。もちろん他の動物たちにも執着はあります。動物たちは自分の住処や餌場に執着をしています。自分の縄張りに他の動物が入ってくると、怒って攻撃して追い出します。動物たちも、「与えられているものを頂いてるだけだ」という事が分からないのです。「自分の力のみで頑張って獲得した物で生きている」と思い込んでいます。ただし、執着している物も物質として無常の性質があるので、いつかは無くなります。すると、悩んだり苦しんだり、怒ったり落ち込んだり、あらゆる感情を作ります。このように悪行為から悪行為へ、不幸から不幸へ流れる心の回転が、全ての生命に共通してあります。

 

心のポテンシャルとは

また心にはもう一つ、「ポテンシャル」という、知っておくべき性質があります。まず心が身体を一旦作ってしまうと、その物体を支えていかなくてはいけません。心が、もともと世に存在する物体に入ることは不可能です。例えば、道端に転がっている石に心が入ることはできません。心が入る物質は、心自体が作り出さなければならないのです。心がまず、素粒子一つくらいの極めて小さい物を作ります。それに心が物質を引き入れて大きくし、システムとして作り上げていくのです。ここに心のポテンシャルエネルギーの法則が影響します。お釈迦様がこれを説明するとき、比喩として使う言葉は「家」です。心が、どんな家を作れるのかということで、ポテンシャルエネルギーの解説をしています。つまり身体を「家」に例え、各個人の身体がそれぞれ違うのは何故なのか、説き明かしています。ポテンシャルという単語を「財産」という意味で理解してください。人が持っている財産の額によって、どんな家が作れるか決まります。一般的に家を建てる場合は、自分の収入に合うかどうか計算して、支払い能力をチェックしたのちに建設工事を始めます。五億円の家を建設するならば、その人には元々それに見合った財産があることが大前提です。多額の借金をし、大きな家を作って、「その建設費を孫の代までローンで支払います」ということは成り立ちません。これと同様に、心にどのくらい能力があるのかという事によって、執着できる物の規模が決まります。人間の身体は様々であり、人間の食べるものも多種多様です。ご馳走を食べたいけれど、なかなか食べるチャンスが無い人もいる一方で、ご馳走はあるけれど自分の体質によって食べられないこともあります。また、私のように年を取ってくると、世にある多くの物が、食べたら死を早める物となります。これは体内で消化してエネルギーにする能力、つまりポテンシャルが減っているということなのです。人は最期には「何も食べられないし食べたくない」という事になってしまうと、数日のちに死を迎えます。

 

業とは執着する力

このように、心のポテンシャルによって異なる執着する力を、仏教用語で「業」といいます。業がどのように働くのかというと、絶えず物に執着する方向へ動いています。できるだけ良い家を作りたい、できるだけ良い服を買いたい、できるだけ良い音楽を聴きたい、できるだけ美味しい物を食べたい、このように執着する対象を限りなく求め続けます。業は執着対象をただ追いかける一方で、方法を工夫することはしません。ちょっと立ち止まって状況を分析することはしないのです。つまり、「欲しい気持ちがあっても、自分の手に入らないということは、他に何か法則があるはずだ」と考えて、「手に入れるにはポテンシャルが必要で、つまり自分の業をどんどん強くしなくてはいけないのだ」という理解に至りません。実は業とは、現在の行為によっても変わるものなのです。この業を、仏教は善業と悪業の二つに分けています。それ以外の無数の業の種類は分類していません。善業というのは希望通りに、幸福や楽しみが与えられるポテンシャルであり、悪業とは希望とはまるで違う結果を与えるポテンシャルです。例えば、健康でいたいのに細胞に癌が発生して、自分の希望とは違う働きを始めます。癌組織が破壊の方向へ働きかけるのです。そうなると人は不幸を感じます。ブッダが世に現れる以前は、業を理解する能力が私たちになかったので、何も打つ手がありませんでした。つまりブッダがいなければ、私たちは無明の暗闇から脱出できなかったのです。経典では、「ブッダが現れたことは闇の中に太陽が現れたことと同じである」と説かれています。「無明の世界に光が現れた」とは、ここでは分析能力が現れたことを意味します。そうしたブッダの能力によって説かれた「善業を行なう」ということは、真に正しい教えです。世間に多くの思想がありますが、ブッダのように、世界の成り立ちを知り尽くした上で述べているわけではありません。例えば善業とは何なのかと世間の思想家に問えば、様々な答えが返ってきます。時には、他宗教の人を殺すことも善行為だと主張している場合もあります。これは、その宗教の聖書が、人を正しく導いていないということに原因があります。このように、人間は無明の闇の中で右往左往するしかすべがない中、そこに生命の理を全て知ったブッダが現れたことは、世界に太陽が現れたのと同じくらい偉大なことなのです。

 

心と執着

さて、心の本来の状態は「ただ何としてでも認識したい、刺激を得たい、それだけの衝動で動いている」とこれまでに説明しました。この衝動の原因は無智にあります。無智ゆえに生命は、自然に悪行為をしてしまうのです。つまり通常運転で悪業を繰り返しています。しかし悪業だけをやっているとそのうち、ふと「あれ、まずいな」と結果が悪いことに気づきます。そこで、少し自分を戒めたり悪行為を控えたりしますが、すぐに忘れて、また悪行為へ戻ってしまいます。わかりやすいように、極端な例で説明しましょう。例えば、戦争で人間同士が殺し合いの日々を続けていると、だんだん食べる物や着る服もなく、寝る所もなくなってしまって、怯えや怒り、嫉妬、憎しみに苛まれ、周辺諸国からは非難を受けます。そして「何かこれはまずい状況だな」と気づき始めます。殺し合いがあまりに辛い状態になってようやく、平和調定を結ぶに至ります。それまでに、あまたの悪行為を積み重ねてしまいました。しかし二年、三年と経つうちに、非常に辛かった日々の記憶が薄れて、また戦争を始めてしまいます。世の中の人々はこうしたサイクルで動いています。そこに智慧は働いていません。「それでは戦争がない国であれば、お釈迦様が教えさとさなくても、人々は心優しくて日常的に良い事をして生きているではないか」と考えるかも知れませんが、それは少々甘いのです。現代の人間が平和でかっこよく立派に暮らしているという錯覚で生きているのは、悪行為とまで断定できませんが、善行為にはなりません。科学的に心の働きを知らずにいるため、やはり無智が働いているからです。そこでお釈迦様が、科学的な心の働きを踏まえておっしゃったことは、「物事に執着しようとする気持ちが間違いです」という事実です。執着しようとしても、執着自体がもともと不可能です。執着できないのに無理をして執着しようとしているのだと気付けば、心は善の方向に働き始めます。

 

レンタル品に囲まれた人生

私の言葉で言えば、執着する対象は何でも、借り物、つまりレンタルだと考えた方がよいのです。自分の身体も携帯電話も借りた物で、決して自分の物ではないという自覚が必要です。自分に属する物ではない「レンタル品」なので、私は携帯電話を二度も紛失してしまったことがあります。もし自分の物だったら、犬の尾っぽみたいに自分についてくるはずでしょう? 犬は別に尾を持って行こうと思わなくても、尾は初めから付いています。また、もし身体が制御可能な自分の持ち物なら、希望通りに健康のまま病気にならないはずです。しかし身体も借り物であり、自分の管理下の物ではないので、身体はそれ自体の法則に従って病気になる性質のものです。

 

お布施とは長い解脱プログラムの最初の一歩

また、人間、つまり心が作ったものは、いつかは壊れたり故障したり、また老朽化したりします。人工的に作った家、機械などは古くなって壊れていくことは避けられません。一方で山が古くなるということはあり得ません。山は人工的に作った物ではなく、発生する過程で心が割り込まなかったからこそ、古くなることがないのです。一度心が物質に割り込むと、老い、つまり老朽化が必ず待ち受けています。物に対して執着している場合、それが紛失したり老朽化したりすると「あぁ、何という事だ。困ったな」という気持ちが生まれます。しかし元から借り物で古くなる性質のものに対して、「永久に現状維持でいてほしい」と執着する方が規則違反と言えます。また、本来生命は、食べ物を育てて食べるのではなく、その場で手に入る物を食べてきました。しかし人間には執着が多いので、農業を発展させました。そうすると今度は、「私の畑」「私の作物」といった概念が現れてきます。天候によって不作になると食べ物がなくなるという問題が起きて、そこから新たな悩みや苦しみが生まれます。もし幸運にも豊作だとしても、その時々に有るものを取って食べる生活より苦労がないと断言できません。なぜなら、心の悩みや苦しみの全ては着が作る問題だからです。生命は執着を作らなければ、大変楽に幸福感を得て生きられます。眼耳鼻舌身意で刺激を受ける事よりも、心が安穏・安らぎを感じることが比べようもなく楽しいのです。この時は楽のみで、苦しみは生まれません。それは執着がないからです。その比類なき幸福な世界を一般世間では経験していません。そこで人々に、この比較しようのない安穏を、たとえ仮であっても経験させた方がよいのではないかとお釈迦様が考えました。その最初のステップがお布施なのです。そこを皮切りに、長い解脱へのプログラムが始まります。お布施という行為が大事な行為であり、実行すれば心が楽しくなることを経験させたいという意図で、お釈迦様は布施について説かれました。一番手軽に実行できるお布施の次は、道徳を守ることで智慧と理性を育て、少しずつ幸福の世界へ近づきます。

 

仏道ではないお布施とは

ただ残念ながら、布施行為を商売やコマーシャルにしてしまっている現状があります。特にテーラワーダ仏教では、布施をブッダの教えから逸脱させて、コマーシャルパッケージにしてしまっています。これは正しい方法ではありません。「このくらいお布施したらこれくらい幸福になりますよ」などと言って、お布施の利益を計算してあげる人までいます。昔の出来事ですが、ある女性の方が「ごま油でお釈迦様に灯りのお布施をしたらどれほどの功徳ですか?」と尋ねてきました。一般的に灯りには、ごま油よりももっと安い油を使います。ごま油は取れる量が少なく高価です。つまりその女性は、貴重なごま油で灯りのお布施をすれば偉大な功徳になるはずだと期待したのです。私は「あなたが得られるのは地獄行きの切符です」と言いたくなりましたが、「私はよく分かりませんから、他のお坊さんに訊いて下さい」と答えました。他のお坊さんはその場で考えて、「これくらい功徳がありますよ」と回答をする方もいました。他の例では、ある若いお坊さんがマスタードオイルをお釈迦様にお布施する法要を全国的に行なっていました。「これは大変大きな功徳がありますよ」と宣伝しながら各地を歩き回ってお布施を募っていたのです。お釈迦様が説いた布施の道ではなく、人間がより一層執着を作るようにと、コマーシャルパッケージに作り替えているケースです。このやり方は仏道ではありません。

 

布施とは心が初めて「手放す」行為

心は刺激を得ること、自分側に物を引き寄せること、つまり何かを得るやり方しか知りません。そして執着によっていくら苦しんでも、取り方を変えるくらいしか対処法がわかりません。例えば田舎に住んでいて、何か寂しいと感じると都会に出て来る。このように刺激の取り方を変えてみて、いくらか気分が良くなっても、問題がすり変わっただけという結果で終わります。なぜ寂しいと感じたのかという根本原因を解決していないからです。つまり、足がひどく痛くて我慢できなくて、治療しても効き目がないので「足を切りましょう」と切ってしまうことと似ています。確かに足の痛みは無くなりましたが、これは治ったと言えるでしょうか? それ以降は一本の足で生活しなければいけない羽目に陥ります。この極端な例で説明したいのは、そういう生き方で人間が生きているということです。「その生き方はまずいですよ」と忠告しても、ではどうすればいいのかわかりません。そこでさらに、「自分に取り込むことばかりをやろうとしないでください」「物事に執着しないで下さい」と言ってもなかなか人は理解しません。お釈迦様が具体的なやり方として教えたのが、「あなたが執着している物を、他の誰かにあげてしまえ」という方法でした。これにより、取り込む一方だった心が、初めて違う行為をすることになるのです。自分が執着している物をあげた、それだけで心がほんの少し「ああ、良かった。いい事をした」という喜びを感じます。

 

解脱へ続く最初の一歩

例えば心の状態は一本の細い水路だとしましょう。しかし、その水路には棘ばかり生えています。その棘の一つ一つが「執着」だとします。心はその都度必要な物質を取り込みますが、水路に沿って物質が流れて行こうとすると、その棘に引っかかって上手くいかないのです。本来は物質が真っすぐに流れて行かなくてはいけないのに、幾多の棘があって滑らかに進めません。物質が棘に引っかかる度に、刺さった棘から苦労して外すことの繰り返しになります。そこで今度は物質が棘に引っ掛かったら、棘ごと物質を引き抜いて、そのまま流してしまうことにします。すると棘から物質を外すよりも、物質と一緒に棘自体を水路から取り除いてしまった方が、水路の流れがスムーズになります。心を成長する方向へまっすぐに流したければ、最終的には何もかも全てを捨てて自由になる方向へ流したければ、棘を抜く、つまり執着を減らすという事をやる必要があります。その場合、一番分かりやすくて実践しやすいのは、布施という行為です。それができた人にはもう一歩進んで、道徳という次の課題があります。道徳を守るという事も執着を戒める方法になります。

 

仏典の物語には要注意

カティナ衣法要などの様々なしきたりや習慣というのは、それほど気にしなくても問題ありません。大切なのは、「差し上げる」という行為によって心が快楽を感じる経験をすることです。つまりお布施する人が、安らぎや充実感を感じてほしいのです。また、「差し上げた物も個人が持つポテンシャル(財産)なら、お布施をしてしまうと無くなってしまう!」と困る事態にはなりません。その人は、執着を捨てるという大量のポジティブなポテンシャルを作ったからです。その法則を説明するための物語も盛んに作られるようになって、「餓鬼事経【がきじきょう】」「天宮事経【てんぐうじきょう】」と呼ばれる仏典も残されています。ただし物語を読む場合は、ストーリーと伝えたいポイントを区別して受け取るよう注意が必要です。「ご飯たった一杯を、通りすがりのお坊さんにあげたら、自分が死んでから天界で生まれて、こんな感じでした」というたぐいのストーリーで喜んでしまって、「あぁ、なるほど、お布施をしたらこんないいことがあるんだ」と考えるならば、仏教心理学的には少々甘いと言わざるを得ません。

 

手に入りにくい物に執着する

いくらでも手に入る物には、私たちは執着しないのです。例えば、私たちは空気が無ければ直ちに死ぬので、生きるために絶対に欠かせない物です。しかし空気はいくらでもあるので執着しません。ただ近年では、環境汚染によって空気も汚れてきました。四十年前なら水が缶やペットボトルで売られるようになるとは想像しなかったように、空気も何らかの容器に入れて持ち歩く羽目になるかもしれません。最近では、ミネラルウォーターの銘柄にまでこだわる人々も現れ始めました。例えばある人が「私はエビアンしか飲まない」と決めると、その事で本人が自分に苦しみを追加します。「飲める水なら何でもいいや」と思って、飲料用の蛇口をひねって水を飲む人の方が格段に楽に暮らせます。このように水を飲むこと一つ取っても、わずかに執着から来る苦が入り込んでいるのです。また、水よりも空気よりも、私たちが執着するものがたくさんあります。手に入りにくいものに、私たちはとても執着する性質があるのです。例えばたいていの人にとって、自宅というのは一か所です。大阪に行ったら大阪に自分の家があり、北海道に行ったら北海道に自宅がある、という人は稀で、ほとんどの人は自分の家は一つだけです。だからこそ自分の家に強く執着します。沖縄に旅行に行って一週間くらい経つと、「あぁ早く家に戻りたいな」という気持ちが出て来るかもしれません。もし「鳥みたいに枝さえあればどこでも寝られる」という性格の人であれば、自分の家にそれほど執着は作りません。鳥は布団が無くても、ほんの少しの枝だけあれば十分休めます。お釈迦様が、阿羅漢の方々は鳥と同じだとおっしゃっています。「ブッダはどこでも気持ちよく楽に過ごすのだ」と。智慧を開発するために、もし執着が無くなったら、心は安穏・安らぎを感じるのだということを、きちんと理解して仏道を歩むべきです。

 

お布施をするとき注意すること

人々が何かに寄付する場合は、もちろん悪い事に寄付しようとはしません。例えば、犯罪行為に資金を援助したり手伝ったりすることは、寄付ではありません。悪行為以外のために、自分の知識や能力を役立てるならば善行為となります。そうしたボランティアも寄付の一つです。また寄付に異を唱える人は「寄付は怠け者を増やす事になる。タダで食べて、生活して、何でも他人からもらって生きていく人を作ってしまうのではないか」というふうに批判します。しかし実際はそうではありません。私たちは誰かに何かをあげる場合や誰かを助ける場合、誰にでも制限なく援助するわけではないからです。例えば他人がお金に困っているなら、具体的にどのくらいの金額が必要か、他人を騙してお金を巻き上げていないか、調べてから寄付することを決めています。何かあげる場合は、もらう相手にその資格があるのかと調べることは自然で当たり前です。例えば、眼が見えない人が道に迷っているとわかったら、事情を聞いて、話し合ってから協力することと同じです。お釈迦様に説かれた布施という善行為は欠陥がありません。お釈迦様が説かれた通りに布施を行い、受け取るならば、批判する点がないのです。仮にお布施をたくさんもらったことで、その人が欲のせいで腐敗したらどうなるのかというと、それはその人の問題です。私も貧困で苦しんでいる人々に寄付をすることがあります。ただ時々、寄付をもらった人々が強烈に執着を作っていく様子を目にします。千円くらいもらったら、今度は五千円をもらいたいと欲を出すのです。何かもらうと、「次は別の物も下さい」と言ってきて、それをあげたら「では今度はこれも下さい」と要求に終わりが無いのです。こういう人々は自らを不幸から不幸へ追いやっています。寄付は善行為ですが、受ける側は気を付けなくてはいけないことがあります。それは、自分ではどうしようもない時や他人の助けが必要な時だけ、他人の助けをいただくようにすることです。そうでない場合は自分の業だけで頑張る必要があります。「過去に立派な業を積んでいなかったので、自分の業だけでは上手くいかないときのみ少し協力してもらう」というものがお布施・寄付の本来の意味です。

 

良い方向へ世界を変えるお布施とは

もしある人が大変困っている時に、仕事を手伝ったり金品を援助したりすることで「ああ、本当に助かりました!」とその人が喜ぶと、やってあげた人も「自分に手助けできる能力があって、寄付ができて良かった」という気分になります。つまり双方が喜べるのです。そういうわけで「寄付する」「お布施する」という習慣によって、世界は良い方向へ変わります。なにも高いお金をかけてオーケストラを聴いたり温泉旅行へ行ったりしなくても、それより桁違いの心の安らぎを感じられます。我々は心の安らぎを感じるために、オーケストラなどを鑑賞したり、高いお金を払って温泉に浸かったりして、「あぁ楽しかった」と帰りますが、それは自分が持っている能力によって得られるものです。お布施が与える喜びはそんな程度ではありません。皆さんも何かお布施や寄付をしてみて「安らぎのエネルギーが自分に入った」と感じてみて下さい。日本でよく言う「生きていてよかった」という感覚を感じます。「あぁ、良い事ができてよかった」と、自分に良い事が出来た事、自分にその能力があった事、それで他人を助ける事ができた事に喜びを感じます。このように一般的な寄付を行なう以上に、「仏法僧にお布施するのは一番高い功徳である」と当事者であるお釈迦様が仰って、当時も反感を受けてしまいました。しかしお釈迦様は「お布施は誰に対して行っても功徳がありますが、仏弟子達にお布施する事がなぜ功徳が高いのかと言うと、真理の道に入っている仏弟子達がいることで仏教が存続できて、人類のためになるからです」と説明しました。

 

出家者とはとことん物を持たずに生活する「道の人」

また、本格的に仏道を歩む出家者は無執着の生き方をしなくてはいけないので、ギリギリまで自分の物を持たずに生活します。そうなってくると、お布施によってしかこの無執着の生き方・システムが成り立たたないのです。もしも仏弟子がいなかったら、ブッダの教えを聴くチャンスが誰にも無くなってしまいます。「お釈迦様にしか発見できない真理を世に存在させ続けることが一番高い功徳になる」という意味で、「出家サンガへの布施が最も徳が高い」とお釈迦様が仰いました。カティナ衣法要というのは、その中の一つです。一年に一回しかできないお布施です。そのために、比丘たちが三ヶ月間の雨安居を大事に守らなくてはいけないのです。歴史上でお坊さん達が悟りを開いたのは、ほとんど雨安居の時期でした。ですからカティナ衣法要のお布施の徳は、必然的に高い徳と評価されます。

 

お布施とは無執着の実践

このようにお布施の心理学的な意味を説明してきましたが、一般的にはなかなか理解しづらい面があることでしょう。まとめると、お布施とは無執着の実践・体験です。その訓練を少しずつ行なうことで、それぞれの心の中にある問題も解決します。今は苦労してやっと必要な物を得たり、仕事も大変でストレスが溜まって苦しんでいたり、収入が足らなかったりと、いろいろな問題があるかもしれません。しかし、今まで説明した仏教心理学からお布施を理解し正しく実践することで、そうした問題が徐々に解消されて「私が暮らしていく上で必要なものは十分間に合っていて、困る事はありません」というふうに生きることができます。そしてお布施の次のステップとして、道徳を学び実践していくのです。このように一歩一歩、執着を減らし、心を成長させる道を歩んでいくプログラムが仏道なのです。(了)