前回 経典の裏を読め - パーリ経典解説(梵網経1) 第十段落
お釈迦様は、一般人の立場からみれば、想像もできない生き方をしているんですが、お釈迦様自身は「大したことはない」と言う。
これまでは「小戒」です。
「中戒」にはすべて基本的に存在欲に関するものが入っています。
おもしろいことは、すべて生計を立てる、ということになっているんですね、戒律の項目をみると。
皆様は「こんなのはわたしたちにできっこない」と、おそらく疑問を持つでしょうから、最初に答えを出したんです。
これは在家の問題ではないんです。出家の問題です。
理想的な生き方は出家にしかできない、ということなんです。
解脱するためには理想的に生きなくてはいけないかというと、ある程度で頑張ってみないと意味がないんです。
理想と言うのは、無執着な生き方で、生命には迷惑をかけないことです。
命を科学的に定義すると、大豆も命です。科学的にみると。
命を取ってはいけないと言うと、生の穀物も生の肉もダメです。
人間は生の肉は食べない。料理するんです。
「生きていきたい」という気持ちがないと、料理できんでしょう。
だから、出家は料理はしない。
托鉢のご飯も、だれかが(殺生を・料理を)しているでしょうという理屈があります。
生命の営みの中で、最終的なプロダクションが作ったご飯なんです。
おもしろいことに、作ったご飯はいつでも「物」なんです。命じゃないんです。
ジャガイモは命ですね。茹でたら? 「物」です。
だから、焼いた魚も焼いた肉も、托鉢でいただいたら食べます。それは物です。一つ前は違うんです。
だから出家と言う言葉を使っているんです。出家とは、生計を立てるという行為をやめているということです。
どう生きて行けばいいかということは、出家した時点で考えてはいけない。
比丘戒を受けるときは、生き物だから、食べなくちゃいけないという問題が出てくる。
命と言うのは壊れるシステムだから。壊れるなら修復しなくてはいけない。
でも出家したのは解脱に達するため。そのときまで、システムを維持管理しなくてはいけない。
そうすると食べるものを取り入れなくてはいけない。
そこで、托鉢に行って鉢に入ったものを食べなさいと。
それがあなたの食べるもの。もし、在家の信者さんが接待すると言うなら、そんなのは、余計にいただいたものでプラスアルファだと思ってください。
托鉢の場合は、仏教僧でもなくても托鉢できます。
いわゆる乞食だからね。しかし、「ください」はダメなんです。それを言うと誰かが、「やっぱりあげなくちゃ」という気持ちになる。
そうではなくて、黙って行くと、相手の気持ちが「この人は何か欲しいみたいだ」と思って、自発的に上げる気持ちが起こる。
そこで純粋に、お布施の気持ちが生じているんです。
誰も、何も言われることなく。
そこで、「何かあげたいな」とお布施の気持ちが生まれても、何もなくて、指を見たら、ただ指輪だけはある。
これだったら、一か月間くらい食べられますよと気づく。そこで指輪を托鉢の鉢に入れようとするなら、お坊さんはサッと腕で鉢を塞ぐんですね。受け取ってはいけないものだから。
そこで、在家の人が自分で食べていたものを、「これはどうですか?」と鉢にいれたら、それは持って帰る。
そういうふうにいろいろと托鉢の決まりがありましてね。
このルールは崩れましたけど。生きる為に出家する人々が増えてきましたからね。
(第十段落つづく
(梵網経1 最終回)実は自然な生き方が戒律 - パーリ語経典解説 第十段落 )
<スマナサーラ長老による経典解説http://www.ustream.tv/recorded/84866551 (期間限定公開動画)01:08:00~ 書き留めました>
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