日本テーラワーダ仏教協会の機関紙「パティパダー」には時々「スリランカの少女が父に語るブッダの教え」が掲載されます。
これはスリランカ人の小学校低学年くらいに見える少女が、父親に説法する様子を捉えた動画が元になっています。
昨日、ブッダラボのTwitterにその少女の説法をご紹介しました。
「スリランカの少女が父に語るブッダ教え」
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年10月27日
少女「水に『お母さん』という文字を指で書こうとします。指で水に書こうとした途端に、字はもう消えている」
父「例え水の中だとしても、書こうとしている動作を見たら『お』だなとわかるよね、形として」
少女「形として見えるのは無知だからです」
続
この「水に書いた字」と同様の仏法を少女が語ったものが、2021年5月号のパティパダーに載っていたので、こちらもご紹介したいと思います。
まず、凡夫が行う布施とは以下のようであると少女と父親は確認しました。
凡夫のお布施は、
- お坊さんがいること、
- 食べ物があること、
- 他の日用品があること、
- お布施する私がいること
の四つが存在し、この四つに対して心に葛藤や執着を起こします。
そのことでお布施という善行為が悪行為になってしまうのだと説きました。
では一方で聖者が行う布施とは、
相手も、食べ物も、日用品も、お布施する私も、
ただそこに一つの心象【Citta-dharmata】があるだけ、と理解して行うものです。
上記の四項目に自分の感情を引き起こさずに、全てがCitta-dharmataと理解しながら、手放す(執着をなくす)ことを訓練することが、本来のお布施であるそうです。
以上の内容について、パティパダー2021年5月号から抜粋した「スリランカの少女が父に語るブッダの教え」をTwitterにて投稿しました。
「スリランカ少女が父親に語るブッダの教え」パティパダ−2021年5月号、55ページ
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年10月28日
少女
「例えば聖者がお布施をしたとしましょう。しかしそこにいるのは聖者ではなく、一つの心象だけなのです。そのことを聖者は分かっているのです」
続
2021年5月号と、同年11月号で、同じ仏法を別方向から解く二つの説法を読むことができました。
この少女は空性ということについて特に造詣が深いのかも知れません。
大変勉強になりました。