ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

世の中で平和が無いのはなぜか? 私たちの「裁きグセ」が世直し欲求を駆り立てる

「世の中で平和が無いのはなぜか?」

我々がよく失敗するのは、「助けてやるぞ」という気持ちがあるんですね。「あいつに一つ教えてやるぞ」とかね。なんか人を直そうとしているんですね。裁こうとしているんですね。そういうのは悪人だけ、心が真っ黒い人しかやらないんです。

 

「みんなに教えてやるぞ」と。これはアメリカだけで十分です。いまはシリアに何か教えてやろうとしているでしょ(2013年9月当時)。これでテロ行為を2つしちゃったんでしょ。一つはケニヤ、もう一つはパキスタン。まとめて100人近く死んじゃったんですね。

「みんなに思い知らせてやるぞ」と偉そうなことを思っているんだから、結局は自分に返ってくるんですね。

世の中はめちゃくちゃでいいことも悪いこともする。そういう中で悪いことを直そうとするあなたは何者ですか? 自分が完全たる人間ですか? 

 

そういう考え方は間違えであると仏教では教えていて、新約聖書にも入っているんですね。いくつかの研究で新約聖書はジーザスという人が言ったものだということで、その人は10歳から大人になるまでどこに行っていたかわからないんですね。聖書の物語は正しいかどうか分かりませんが、ジーザスが生まれるときに東から賢者が来たんですね。賢者が来て、いろいろお礼をしてと言う話があるんですね。それはチベット人であると。チベット人が、ラーマが亡くなったらどこで生まれ変わったかと調べるんですね。遠いところで生まれ変わったと察知したら、そちらへ行って、(生まれ変わりの可能性がある)子供を連れてチベットへ帰るんですよ。連れて帰って修行させて、大人になったら自分で判断させるんですね。家に帰るか修行を続けるか、と。

そういうことで、大人になったジーザスが帰って来たんだと、イスラエルに。だからジーザスが言っていることは結局仏教であると。新約聖書の文章を読んでみれば、そのままですからね。

ただ汚れているんですね、神の信仰、それだけが。

 

新約聖書の中に一つのエピソードがあります。不倫をした女性が捕まって、ユダヤ教ではその人を殺さなくてはいけないんですね。石を投げて。不倫した男のことは何もないんですね。

石を投げて殺せとは、仏教的になんだこれは、と。不倫したのが悪いんだったら、男も女も悪いでしょう。

そこで、ジーザスの揚げ足を取ろうと思って、周りに居たユダヤ人たちがジーザスに「あんたどうおもいますか?」と聞きました。

聖書にあるたったひとつの、その一行だけかっこいい、宝物になる言葉です。

 

「罪を犯したことが無い人は、最初の石を投げなさい」

 

石を投げるのをやめなさいとは言っていないんです。ユダヤ人の法律に「石を投げよ」と書いてあるんだから。それをいいとも悪いとも言わないで、ずいぶん仏教的で、ずいぶん理性的な言葉なんですね。

そして、誰も石を投げようとしなかったんですね。それで女性の命は助かりました。

あの一行はしっかりとした役に立つ言葉なんですね。

 

だれでも罪を犯すんでよ。だから誰にも相手を裁く権利が無いんです。自分が嘘をつきながら「あんたは嘘つきだ!」というのはとんでもないことです。

 そういう癖が我々にはあるんですよ。とんでもない恐ろしい癖です。あの人が悪い、この人が悪い、お父さんが悪い、お母さんが悪い、とかね。

人の良し悪しって見えますよ。しかしその人を非難しないで、それを教えてあげなくてはいけないんです。教える義務がある場合は。

 

世直しするならば、存在価値が無いほどの悪人なんです。

世の中で平和が無いのは、たった唯一の原因がそれなんですね。世直しに行くんですね、悪人たちが。

 

ここら辺でもね、北朝鮮とかいろいろ問題があるでしょう。自分たちが善人ぶってやってるんですね。原子爆弾作ったり。だから周りにもすごく迷惑なんですね。悪いことをしたとしても、お互い様だからしょうがない、としなくちゃアカンでしょう。

 

私たちには人の短所ばかり見えるかもしれませんが、短所ばかり見えるのは、自分が人格者として未熟な獣のレベルでいるんですね。獣のレベルより、ちょっと上がっていくと、人の良いところが見え始めるんです。長所も見え始めるんです。

 

悪いところばっかり見えるんだったら、獣レベルなんですね。

 

良いところも見え始めると、悪いところも良いところも両方見え始めるんですね。だからと言って「悪いところを直してやるぞ」という権利はないんです。それはあまりにも傲慢な態度なんです。

 

自分に関係ある人々、自分が育てる義務がある人々に教える必要がありますけど、だからと言って自分が完ぺきじゃないでしょう。だから良いところも悪いところもそのまま受け止めて、相手の幸福を願って、優しく穏やかに、相手の心を傷つけずに教えなくてはいけません。その他の(人の)ことは放っておくしかないんです。

そういう悪い性格があるので、私たちは正しい判断ができなくなるんですね。

 

最初に言ったこと*1とまとめますと、なにかいいたくなったら、一歩下がって「これでいいのか?」と聞いてみる。判断するときは「これでみんな幸せになるのか?」という基準で判断する。それをうまくやっていくためには、「世直しはしません」と、「私はそんな身分ではありません」という気持ちで生きてみれば、まあ完璧に生きられると思います。(終わり)

 

β関西活動報告 : '13 9/23 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎 Youtube上で9:00~20:50頃よりメモしました。

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*1:


感情の起伏が激しいのをなんとかしたいのですが… - 瞑想してみる