(勉強して知識を入れれば入れるほど、不安や迷いが大きくなっていくんですが?
より続きます)
質問者「スピリチュアル霊能師が、霊魂は確かにあると言っていたのを聞いたんですけど……」
回答(スマナサーラ長老)
もし、霊魂が確かにあるとその霊能師が証明できたならば、あなたにその疑問は起こらないでしょう。
その霊能師のことが好きでいろいろとその著書を読むあなたが、いまだに霊魂はあるのかないのかと疑問に思っているならば、その霊能師は大したことを言っていないということになるし。
客観的な答えは、その霊能師の方にちゃんと説得力があって、科学的に、理性のある人にも認められるように証拠を出して語っているならば、疑問は生じませんよ。
語っていることを聞いていても、まだまだ疑問がある、ということは、正しいことを語っていないんです。
じゃあ、わたしの主観なんですけど、あの方はね、日本人の弱みとか信仰をねじって紹介しているだけでしょう。聞きたいことを教えてあげる、というね。ちょっと一枚上手ですからね、「この人、こういうことを聞きたがっているんだ」と読めるんです。それを言うんですよ。つまり聞く能力ですけど。
それぐらいっていうのは、日本人同士ならいとも簡単にできます。わたしも自分の国の人間が相手だったら、あの方より100倍くらい能力を発揮して語ることができます(笑)相手がなにを考えているかすぐに分かるんだもの。文化背景も同じでしょうし、教育も同じ教育を受けてるでしょう。
だから、相手の言ってほしいことを言ってやろうというのは、いとも簡単なんです。あの霊能師の方は、日本人の言ってもらいたいことは簡単に言ってあげられますけど、では他の国の人にもできるのかと実験してみないと本物かどうか分からないんです。
「亡くなったお父様があなたのことを見てすごく喜んでいらっしゃいますよ」とかね、日本人なら喜びますけどね。死んでから子供のことをしっかり守っているとか。
元気な肉体を持っているときだってほとんど何もできなかったのに。親が子供にしてあげられることは、ご飯を作ったり、服を洗ってあげたり、失敗したらちょこっと慰めてあげることくらいでしょう。慰めたって問題は解決しないんですけど。
それを、死んでから子供を守るっていう……。情けない。
親にとって一番ありがたいことは、子供が独立することなんです。親に構わないで、堂々と生きていることなんです。
子供が親に感謝しているというのは、親にとったらとても気持ちがいいんですよ。それなら親が、隠れてすごく喜ぶんです。
死んでも、それでしょう、生き物の生き方は。
だから死んで幽霊になっても、子が親に頼らないことが、その幽霊の喜びにつながるんです。
死んで孫のところにいる幽霊は、ろくな生き方じゃなかったんです。失敗者です。
仏教も死後の世界を語っていますからね。死んでも人間の世界にうろうろしているとは、何だこれ、と。ということは、人間の時にろくなことをやっていなんです。
調べてみてください。人間のとき立派に生きていて、亡くなったら、だれか幽霊になって出てくるのか、と。誰も幽霊として来ないんです。
人生とはこういう喩えで理解した方がいいんですよ。
高校を卒業した人が、またコソコソと小学校へ通うのかと。小学校の周りでウロウロしているのかと。小学校で使った机とか椅子に触れて、「ああ、昔はよかった」というのは気持ち悪でしょ。小学校の時にお世話になった先生に会っても、かなり距離を置いて挨拶をするんであって、「ああ、先生ぃぃ!!」と泣きながら抱きついたりはしません。
人生はそうでなければいけませんよ。一つ挑戦して、「ハイ、ではさようなら」と、また次に挑戦して、そういう道なんですよ。
霊能師の方がやっていることは、悩みを持つ人間に悩みを増やしてあげているということです。
たとえば、タレントさんは、明日はどうなるか分からない激しい競争社会に生きていて、腐るほど悩みがあるんです。テレビに出ても、自分の顔は10秒、20秒、その程度しか映らない。
そこで自分を一分も映してもらうためには、ムチャ苦労しなくてはならない。あの人々は、ずーっとカメラをチェックしているんですよ。自分に赤いランプがついたカメラが向いている瞬間で、何かやらなくてはいけない。カメラは何台もあって、赤いランプがついたら映っています。コントロールルームで、プロデューサーがモニターを見ながら好き勝手にボタンを押してカメラを選んで番組を作るんです。プロデューサーの好みで作られます。
だから必死ですよ、タレントさんは自分を売り込むのに。
だからまあ、霊能師はそういう人々と仲良くして、オオカミ一匹が、飼い主もいない羊の群れを見つけたようなものなんですね。この羊たちがまた足が弱くて、走ることもできない羊の群れだからね。やりたい放題ですね。
経済成長して、より精神世界に興味あるんだとか嘘言うな、ということです。ただ人間として情けないからそんなことをやっているだけです。なんでも嘘で処理すればいいと思っているんですよ。
「今は心の時代だ」とかいうでしょ。
経済的にも科学的にも発展したし、人間はすべてそろっているし、ハイ、これから心の時代に挑戦しますというのは、嘘を言うなよとわたしは言いたい。
経済はあまりにも異常現象を起こしているんだから、あなたがたには太刀打ちできなくなっているだけでしょ。経済システムに奴隷になっているだけだ。人間として生きることもできなくなっているんです。
科学はあまりにもバランスを整えていなくて異常発生しているんだから、一部だけ。何が起きているかと分からなくなって、われわれは科学の奴隷になっているだけ。
今(2007年12月)はお正月近いので、年末大掃除のCMがたくさん流れている。この洗剤をかければ一発できれいになるんだよ、とか。こちらは大掃除しなくちゃいけないし、とにかく洗剤が必要だし、この不安定なところに、あれやこれやと商品を売っている。
それで現代人にとっては、この状況はあまりにも異常で、これは発展じゃないんですよ。異常発生は何とかしないと。体でも異常発生しちゃうとこれはがんでしょう。
教育と言っても、その中の一部分が異常発生しているんですね。そうなってくると、子供たちにはなかなか対応できなくなるんです。経済も科学も同じ。そこで生きていられなくなっているんです。
そこで、神頼みでも、神秘頼みでも、という原始時代に逆戻りしているんです。
だから仏教の場合も、チベット仏教が一番人気です。なぜかというと、呪文やらいっぱい教えているからです。
ということで現代が心の時代というのは、原始時代にさかのぼることですよ、はっきり言えば。
迷信の塊というのは原始人でしょ。病気になっても霊の祟りだとか。ちょっと豊作なら神の恵みで、凶作なら罰が当たったんだとか。
今は、もう一度、原始時代に戻って、迷信の世界で何か頼りになるものがあるのかと探しているんです。でも、それは頼りにならない、とお釈迦様にも説かれているし、また新しい問題が生まれる。
面白いことに、そういう神秘的な力を持っている人はどうしても金を取るんですね。あれって何でしょうね。結局、商売をやっているだけ。
お釈迦様も、(霊能師の方のような)神秘世界はね、ただの金儲けでやっていることだから、畜生の職業だと言っています。
はっきり、畜生という言葉を使います。汗を流して田畑を耕して生きることがかっこいいんだと。籠を作って売って、それがかっこいいんだと。占ってもらって金をもらう、これは畜生の仕事だと。方位学で何とか教えてあげたりして、結婚にいい時期を教えてあげたりとか、結婚占い、離婚占い、カード占い、いくらでもあります。
読みたければ、長部経典のパート1の経典を、なんでもいいんですけど読んでみたらいいと思いますよ。全部省略しないであるのは、第一と第二の経典なんです。
中身は難しいんですが、最初のインチキを教えたところは、だいたいわかります。*1
で、そういうものに頼ってでも、この不安定な人生を何とかしようと思ってはいるみたいです。これは心の時代ではないんです。ただ原始時代にさかのぼるだけ。降下するだけ。
昔も今も、人間は心なんですよ。
今更、心の時代とは何でしょうね。
心で生きているんです。心でしゃべっているんです。心で物事を開発しているんです。それで、たまたま明るい心で何かすると結構、結果がいいし。汚れた心でやると戦争まで起こるし。金と立場ばっかり考えている科学者は、自分の科学研究で人を殺す道具を作るし。
お母さんに育ててもらったんだから、お母さんが喜ぶようなものを作るぞと科学者が開発すれば、人道に役立つものを作るし。
だから結局は、初めから心の時代なんです。人類が現れる前に動物だけいたときも、心の時代なんです。動物も心で生きているんです。
(「明日は分からない」という世界につづく)
(関西定例瞑想会 2007.12.16
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/475960.html(音声ファイル:下⇒真ん中)よりメモしました)
関連エントリ:物質と心の働き。原子も、電子も、素粒子も、心も、無常ならざるものはない【アビダンマ】
すべての「説法めも」を読むには:
*1:「パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇Ⅰ」 片山一良訳 第一梵網経 p97「ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、肢体の占い、前兆の占い、天変の占い、夢の占い、身体的特徴の占い、ネズミの齧りあとの占い、……宅地の呪術、鬼霊の呪術、寿命判断、……といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし沙門ゴータマは、そのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている」と。」
このように、さまざまな『インチキ』が列挙されて、5ページにも及びます。
長部(ディーガニカーヤ) 戒蘊篇I (パーリ仏典 第2期1)
- 作者: 片山一良
- 出版社/メーカー: 大蔵出版
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