(スマナサーラ長老にも解決できない一つの大きな問題【日本社会について】
より続きます)
問題は、一人一人が自分のことしか知らない。われわれは自分という基準ですべて判断する。自分に良いものは「良いものだ」と、自分に悪いものは「悪いものだ」と。なんで人とうまくいかないのかというと、自分が「これが正しい」という判断があるんだけど、相手はそうは思わないでしょう。相手は相手の判断を持っているでしょう。それは見えないんですよ。
だからいつでも、「わたしが決めたんだから。わたしが決めたとおりに社会が動いてくれ」ということだから、確実にみんな潰れるんです。
みんなその大きな問題を起こしているんですね。「わたしが決めたんだから、その通りにやります」と。相手もそう思っているでしょう。
そこで問題は、「わたしが決めた。わたしが考えた。ゆえに私が正しい」と言えるのか? どうやって自分が正しいと言えるのか?
あるいは、わたしが人のことを配慮して決めます、と言っても、自分のことをろくに知らないあなたが、どうやって相手のことを知りえるのか?
だからその道ではくじけるのであって、一つもうまくいかないんだよ、と。世界は踏ん張ると、大きな問題を起こすのであって、解決はしません。
だからですよ、日本の国も、改革しようかなとずっとしゃべっているだけで、音だけで終わっちゃうんです。何もしないで。何もできないんですね。
逆に、じゃあ何とかしようと思って、何かしようとしたところで、予測しなかった新しい問題が次から次へと現れてくる。危機管理はわからない。危機管理という概念を入れちゃうと、何もしないで脅えて、キュウっと固まっちゃうんです。動けというと、危険知らずで動いちゃって全部潰してしまいます。
このままではどうにもならんですよ。
だから、お釈迦様が「そんなことどうでもいいんだから、世の中のことはね。あなたの人格を改良しなさい。あなたの弱点を一つ一つなくしてみなさい。世間のことは放っておきなさい」
それで一人一人が、自分の弱点・短所を改良していくと、それで問題が全部解決していきます。
10人の人とトラブってるのはその人だから、その人自身の問題を解決したと同時に、10人との問題は消えているんです。
問題があったのは自分のアプローチですからね。わたしと恨み合っている人は、一切の人類と恨み合っているわけじゃないでしょう。
わたしと恨み合っているというのは、わたしとその人の関係なんです。
そこでわたしの恨みのフックは、わたしについているでしょう。「こいつに恨みがある」と引っかかっているでしょう。
これは、わたしの人格が完成したら、フックが取れて引っかからないでしょ?
それでその問題は解決しているんです。相手に恨みを持つことはできなくなるんです。
10人と10種類の問題を持っていたならば、自分が直した時点で全部解決なんです。だから試験に落第するのも自分の問題であるし、会社の面接でダメになったのは自分の問題であるし、夫婦げんかしたというのは自分に問題があるし、子供が喧嘩して出ていったとなれば、自分に問題がありまして、それを棚に上げて、何に踏ん張っても無意味です。
だからお釈迦様は、「何に踏ん張る必要はない。自己改革しなさい。それで問題は終了です」とおっしゃいました。
具体的な期待、目標については語りません。くだらない、と。
たとえば、「○○という会社に入りたいのですが、その会社に入るためにどうすればいいか?」と若者がわたしに相談する。わたしは、「くだらない。もっと他にいい会社はないんですか。それとも、あなた自身が会社を起こさないんですか」どちらでもいいんですよ。だから気持ちよく、「君はこの会社に入るためにこうしなさい」とアドバイスできないんですよ。
なぜかいというと、こちらから見ると、無限に能力のある人にリミットを作らせることになるんです。どうして、無量に能力のある人にリミットを設けなくてはならないんですかね?
だからわれわれは、こうしなさい、ああしなさいと、あまり具体的なことは言いたくないんです。
能力向上というならば、どこまでも向上しなさい。これ、上限作る必要はないんだよ。
問題にアプローチする方法があるんですよ。その方法として、この瞑想二つを教えているんです。
第一は、慈悲の瞑想。慈悲の瞑想というのは、自己改革のためなんです。
それは俗世間に生きているために必要な瞑想なんです。たったそれだけで、一切の問題が解決します。
言葉で言えば、「生きとし生けるものが幸せでありますように」、たった一行で。社会における一切の問題、すべて、一つ残らず解決します。
なぜかというと、みんなわがままで自分の利益だけで生きているんだから、これは鬼の集まりなんですよ。わたしが相手の肉を食おうとすると、相手は自分の肉を食おうとしているんですよ。お互いに食い合っているんだから。基本はそちらにあるんですよ。みんな互いに食い合っているんです。
自分が相手のことを食いたいから、人々と付き合わなくてはいけない。入った途端、自分も食われるんですね。それは嫌だ、食うだけの方法はないのか、食われない方法はないのか?
ないんです。
それを変えるんですよ。食い合うんじゃなくて、助け合う世界にしたらどうですか?
わたしは相手を育て上げると、相手もわたしを育て上げる。育て合う社会でしょう。
自分の仕事は人を助けることである。他の人も、自分の仕事は人を助けることである。こうなると、自分が成長していくんですよ。ストレスは全部消えます。憎しみ怒りも全部消えてしまいます。
「人間関係は…」という言葉さえ出てこなくなっちゃうんです。困っているんだ、とか。
「生きとし生けるものは……」という一行で、人類の問題は解決するんです。
これは人類だけに限ったことじゃないんです。すべての生命との関係がよくなるんです。
だから、個人的な希望というのは悪いか良いか、そんなのはどうでもいいんだから、置いておいてください。
仕事を上手にやりたい、とか、もうちょっと収入が増えてほしいというのは普通でしょう。
そんなごく当たり前の希望くらいは何のことなくかなうようにしなさいよ。それさえもできないようだったら、負け犬なんですね。
しかしそれが生きる目的だったら情けないんです。
自分の生きる目的は、会社でよく仕事できることだというのは情けないんですね。子供たちをよく育てることが、私の唯一生きる目的だとしたら、子供たちは18歳くらいで出ていくでしょう、それからあんたどうするの?
そういうことを生きる目的にするのは情けないんです。しかし、それが達成できないとまたみじめなんです。
そんなどうしたことない目的は軽々と達してほしい。しかしそれで人生の目的に達したわけではないんです。
だから達するべき目的はたくさんあります。
そういうことで、理性のある人はどうするのかというと、「あれもやりたい、これもやりたい」とやりたいものばっかり頭の中でゴチャゴチャ考えるんじゃなくて、自分の人格を改良するんです。
試しに2週間くらいでも、慈悲の瞑想で固めて、徹底的にやってみてください。人生はどう変わるのか?
すべて見事に奇跡的に、良い方向に回転し始めるんです。
しかし、これは宗教でやっている神秘だと思ったら、勘違いです。
われわれは心で人々にアプローチしているんです。心は何も知らない、内向きなんです。自分のことしか見ないんです。自分のことしか見ない心だから、うまくいっていないんです。
自分という人格は、顕微鏡でも見えないくらい小さすぎなんです。
だから自分のことばっかり見ても、なんも頭良くならないんですよ。
慈悲の瞑想はどういうふうにやるのかというと、偉そうな気分で「これで世界は救われますよ」というとんでもない迷信でやるんじゃないんです。
それは自分の心を改良するためにやるんです。自分を治すためにやるんです。
だから2週間くらい、朝も午後もものすごく集中して念じてみると、自分が変わってくるんです。
自分が変わっていることを実感できますよ。同時に、相手も変わったんじゃないかと思いますよ。相手が変わったかどうかあまりわかりません。しかし、自分から見ればもう問題はない。
今まで、この人は嫌味を言ってきたのに、アレ、嫌味を言わなくなった。「あなた変わりましたね」というけれど、自分が変わったんです。
相手の人が嫌味を言えなくなっちゃったんです。
それで相手も助かります。相手にも嫌な気分が生まれませんから。
自分を改良したならば、自分には問題ないんです。心に邪魔が消えちゃうと、能力っていうのはいくらでも伸びます。だから、あまりはっきり決めなくてもいいんです。仕事を変えてみてもいいんです。仕事を3回変えたなら、能力は3種類付いているはずです。どこまででも伸びます。
だから社会で作る問題というのは、すべて自分の心にある、怒り・憎しみ・嫉妬・わがまま・欲望で、生まれてくるんです。
慈しみは、人間関係・生命との関係なんです。その理想的な正しい関係は、慈しみなんです。
そこを育ててみると、問題は解決します。
それから、それでも人間は完全というわけではないんだから、「生きることはどう見てもむなしいもので、年取るし、いくら頑張っても物は自分から逃げていくし、執着もあるし、そうすると苦しい羽目になっちゃうし。
だから、生きるとは何か? と理解してそこから脱出することだけ目的なんです。
生きることに目的はないんです。しかしせっかく生きている人には、「生きることから脱出する」という目的は作った方がいいんだと。
なぜ脱出するのかというと、生きることを研究してみると、苦であってむなしいものです、と。
苦であってもトコトン挑戦しなさい、とは仏教は言えないんです。言えないんだけど、極限的に社会を非難して否定して、何かやろうというのは理屈が崩れます。
社会が何か悪いことしたのか? というのも仏教にないんです。
生きることは全然評価しません。ゼロとするんです。
「ああそうか、わかった。わたしは社会を攻撃して、何か宗教に挑戦するぞ」というなら、「あなたちょっと仏教から出て行ってください」という感じなんです。
だから、仏道を行う場合は、社会では何も問題が起こりません。その人こそ、社会の問題を解決する。その人は、社会で成功するが、社会に問題を与えません。成功しても、成功に執着しない。
「たまたま頼まれたから、この仕事をやりました。頼まれたんだからしっかりやりました」と、それがどうした、というスタンスなんです。「すごいんですね、仕事ができて」と言われても、「だからなんでしょう」と。
仏教徒は、社会から非難を受けません。仏教徒は社会にも攻撃しないんです。誰かにだまされることもありません。だまされるときは、こちらにも何か問題があるときなんです。
(個人の悩みは慈悲の瞑想で、人間として達するべき目的にはヴィパッサナー瞑想で に続きます)
(関西定例瞑想会 2008.01.27 スマナサーラ長老説法
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/494188.html 音声ファイル:下⇒真ん中よりメモしました)
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関連書籍:
慈経―ブッダの「慈しみ」は愛を越える (「パーリ仏典を読む」シリーズ (Vol.1))
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,日本テーラワーダ仏教協会出版広報部
- 出版社/メーカー: 日本テーラワーダ仏教協会
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本の内容は、パーリ語「慈経」の詳しい解説です。パーリ語の単語一つ一つに普通の言葉で説明があって分かりやすい。読んでいると「古代のお経なんだよね」という固定概念を超えて、今の、生きているわたしの心にスッと入ってきます。
本の内容が文庫化されたものが、こちらのようです。⇒
この本はKindle版も⇒