ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

忙しい日常で、毎日瞑想を続けるにはどうしたらいいですか?

質問

ヴィパッサナー瞑想について。日々、日常生活で実況中継しています。

時間をとって座る瞑想をしたいと思い、朝早く起きてしようとチャレンジしています。しかし、怠け心が出てなかなかできません。

朝の出かける前や昼休みの短い時間に瞑想することでも上達するんでしょうか? ヴィパッサナー瞑想を毎日続けていくうえで、アドバイスをいただけないでしょうか?

 

回答(スマナサーラ長老)

 

厳しく、ブッダの智慧に基づいて、厳しく分析してみます。

 

今の質問は、論理的に言い直してみるとこういうことなんですね。

 「わたしは怠けるのが好きで、仕事はやりたくないんだけど、成功できますか?」

と言う話なんです。

 

怠けは止めたくないんだけど、成功したいということです。前の話(能力ある人は「次どうなるか?」を気にしない【前編】と同じなんです。われわれどんな人間にもだいたいあります。  

 

例えば朝早く起きて瞑想したいんですけど、怠けが入ってしまう、ということは瞑想することはやりたくないってことなんですよ。やりたくない仕事をするのは苦しいんです。やりたくないことはできればカットするんです。

 

瞑想の場合は誰も「やりなさい」と言わないんだからね。先にカットします。何よりも。

 

朝ごはんを作りたくないんだけど……。カットできませんね。それはやります。でも嫌々。やりたくなかったんだから。

 

そういうふうに人間が生きているんです。

 

だから答えは、一回だけでもいいんだから、長く瞑想してみる

喜んで仕事をしてみる。

 

人間にとっては、能力向上やら、精神的な力をつくこと、充電することはすべて瞑想で生まれますよ。

 

生きるためにはエネルギーが必要でしょう。エネルギーを充電することが先でしょう。パソコンであろうが、バッテリーはあるけど、充電していなきゃ意味ないでしょう。

だから、充電することは先にやるべき作業なんです。

 

そういうことで、なんとか怠けを破ってやるぞと、怠けを破ったことに喜びを感じて、とにかく、瞑想を朝30分できたと。それも早く起きてやった。どうだい、わたしの人生は、と。自分に対して喜びを感じるんです。

 

怠けては自慢できません。今も自慢できないということでしょう。それでも結果だけ欲しいと(笑)

 

えー……、やっぱり座る瞑想は毎日30分程度でもやったら、いくらかレベルが下がらないで保つことができます。

必要なことはカットできませんね。種を植えて、水やりはカットしましょうというのはできません。種を植えたならば、水を上げなくてはいけないんです。

じゃあ、肥料をカットしましょう。太陽の光をカットしましょう、というのもできませんね。

 

カットできないものはカットできないんです。

 

座る瞑想も必要です。30分できれば結構成長しますし、エネルギーにもなります。

 

一回、二回瞑想をやってみたら、もうやらずにいられない状態になります。

朝起きて瞑想をすることを、一回二回やると、次の日に寝るのが遅くなっても、時間通りに起きています。その時何も文句言わないで、サッと起きてから瞑想してみれば大丈夫です。疲れもストレスも瞑想で消えますので、大丈夫だと思います。

 

だから宿題は、なんとかして怠けを「切った」経験を持つべきなんです。怠けに勝った喜びを持つべきです。

 

やっぱり自分で自分を褒める生き方をしなくちゃいけないんです。人は褒めてくれませんしね。自分のことは素直に褒められます。「頑張ったじゃないか」と。

 

内心で喜びを感じることですね。

 

だからなんとか、怠けに、一回だけでもいいんだから勝った喜びを持たなければね。

 

忙しくて混乱した生き方に、ちょっと打ち勝って、自分の修行の時間を作るぞと。仕事はサッサとやっておいて、修行の時間を勝ち取ったぞと言う喜びを、一回二回感じたら、問題は解決すると思います。

 

智慧があればね、生きることが瞑想の対象ですから。いつでも生きているしね、一応。

 

お釈迦さまが言うのは、「気づかない人は死体と大した違いはないんだ」と。

頭が、過去にあるならば、将来にあるならば、もう死人だよと。現場にいないんだからね。

 

肉体が呼吸したりしゃべったりしていますけど、現場にいないんですよ。だから死体と大した変りはないんだと。そういう風に言っているんです。

 

一応われわれは生きているんだから、修行はいつでもできるんですね。仕事があったからできなかったというのは、ないし。忙しいからできなかったというのはあり得ないんです。生きているだけの話でしょう、24時間。忙しいからと言って二倍仕事できるわけないでしょう。

 

ああいうのは妄想しているから、無駄に時間を浪費しているから、忙しいと言うんです。

 

わたしも「忙しい」という単語を使いますけど、その場合は「わたしのスケジュールは一杯です。あなたの依頼に対して、時間的に隙間がない」と言う意味です。自分が個人的に忙しいとは感じないんです。ただ、1分でできることは決まっているし、30分でできることは決まっている。時間は伸びずに、しっかりと固定しているんだからね。

 

その中でできることは決まっていますから、焦る必要はないんです。

 

「ああ、忙しい。ああ、忙しい」というときは、仕事を結構サボっているんです。

例えば、六時半の電車に乗らなくてはいけない。家から40分かかる、駅まで。それで五時半に起きちゃってどうするんですかね。朝準備が必要ならば、その時間を計算して起きれば忙しくないでしょう。

 

朝出かけるときになって子供が「お母ちゃん、あれやって」と言っても、「もう時間がありませんから」と言って話は終わり。「あなたはそれを昨日のうちに聞くべきだった」と言えば、子供もちゃんと躾を受けます。

なのに頭の悪いお母さんは、それをやってあげようとする。それで電車に遅れる。その怒りが子供にあたる。最悪でしょ。

 

ちゃんとスケジュール通りにやる人は、「ああ、これはね、昨日言ったらできましたけど、今は出かけますからね。はい、さようなら」と。

子供は悔しくてどうしようもなくっても、それは本人の責任で、学んでいきますから。人生は何なのかと。

 

そういうわけで、「忙しい」というのはわれわれは時間を浪費しているので、あんまり成り立たない言葉なんです。

 

それから、忙しいというのは置いておいて、とにかくわれわれはいつでも生きている。

 

「生きている」ことに気づくのが瞑想であります。

それで現象を離れて事実を見ることが瞑想なんです。

 

「弁当を作っている」んじゃなくて、自分が手を伸ばしたり、箸を取ったり、落としたり、そういうことをやっているんですね。

 

歩いているときは、足を運んだり。そういうふうに自分の肉体でやっていることに気づくんですね。

肉体がやっていることに心を入れておけば、瞑想ですよ。

それで人生と言うのはずいぶんシンプルであると見えてくるしね。それにはいくらか智慧は必要。落ち着きと智慧が必要です。

 

落ち着きと智慧がもともとない人々は、ちゃんと一時間くらい歩く瞑想をしたり、30分くらい座る瞑想をしたりしないと、どうにもなりません。

何かカットできませんか? というのは、智慧ができている人はそんなふうに聞きません。言われたとおりにやっています。

 

そういうことで、あまり理性がなくて仕事に足を引っ張られる人々は、ちょっと怠けと戦って、怠けに勝った喜びを味わうと、もうそれからヤミツキになります。楽しくなります。そういうふうにした方がいいと思います。

 

(関西定例瞑想会 2008.03.16

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/537818.html よりメモしました)

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