縁起=業
であると、大まかに捉えて良いようです。
十二縁起に対しては納得できる場合でも、業については同じように考えられないケースも見受けますが、業は自分の境遇に照らし合わせて考えがちなので、感情が理解を妨げるのかもしれません。
以下は、パユットー長老の「仏法」からの引用による「業」の解説です。
前回は、パユットー長老「仏法」より、「五蘊からの縁起」をツイートしました。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) August 18, 2021
その五蘊からの縁起を踏まえ、今回は「縁起からの業(Kamma)」について、パユットー長老の解説をツイートします。https://t.co/colRjhQ5tR
「仏法」166ページ
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業は縁起の過程の一部に過ぎない。それは過程を三道の輪廻(煩悩、業、異熟)に分けるとはっきり分かる。
縁起の道理は、業を作る因である煩悩から始まり、受ける結果である異熟まで、業を作る過程とすべての業の結果を示す。
縁起の道理をよく理解すればそれは業の原理をはっきりと理解することと同じである。したがって法の本質あるいは実相について説明するのにここで業について別に説明する必要は何もない。しかし業について重大な誤解を防ぐために強調しておかなければならない重要な点あるいは側面がある。以下説明する。
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【自性法(Sabhāva dhamma)における業と倫理面の業】
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仏語にこう書かれている。
「無明に縁りて、人は身行、語行、意行をなす。ひとりでに、他により、知りつつ、知らずに」
そして仏語では、自作論の自ら作す苦楽、他作論の他から作す苦楽の原理を否定する。
続
この仏語の基本は、業を因縁の過程として見ることを強調している。業が自作であっても他作であっても、どれがどの程度関係するかは、過程の中で関係し進行する因縁であることを思慮すべきで、直ちに簡単に断言することではない。
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続
ここに述べたことは、業について、何もかも全て自分が作したことだとして、関係する縁である他の環境や要素を考えないという、業について考えがちな最後の誤解を避けるためである。
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しかし、実相の原理と倫理面の原理の間の理解をもう一段階分ける必要がある。ここまで(上記は)実相の説明である。続
倫理面については、人が意図して行ったことと、目指して得た成果については、その人が完全に責任を負う人間だということができる。仏語でいうところの「己の頼るべきものは己のみ」とは、自分から見て、人間の責任を直視するものである。
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終
【業の原理から分離すべき間違った教義】
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人間の苦楽と生き方については邪険の教義が3つある。業の原理と理解が混乱しないように注意しなければならない。
1、宿世因論
(pubbe kata hetu vāda, Past action determinism)
一切の苦楽は先業によると見なすこと。
続
2、自在天所変因論
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(issaranimmāna hetu vāda, Theistic determinism)
一切の苦楽は偉大なる天神のなすところと見なすこと。
3、無因無縁論
(Ahetu apaccaya vāda, Indeterminism or accidentalism)
一切の苦楽は因縁がないと見なすこと。
パユットー著「仏法」168ページhttps://t.co/XpE5HmLtgt
個人的な感想ですが、日本ではこの「1、宿世因論」に陥る場合が多いようです。
一神教徒の方は2に、無神論教徒の方は3に陥りやすいかもしれません。
しかし業を完全に理解したら十二縁起も理解したことになり、そうなると解脱ということですから、誰しもが少しずつ邪見に陥っているのが現実かと思います。