生命は無知なので、感情(煩悩)で生きています。
何の証拠もないのに「自分こそが偉いのだ」と思っているのです。そこで他人が自分のことを軽く扱ったり蔑んだりすると、傷ついて怒りや悲しみに苛まれることが多々あります。これは心の問題です。生命は他の心を推測するだけで、はっきりと認識できないのです。例えばゴキブリは、空気の動きで敵が近くに来たと推測します。でも、それが正解かどうか本当のところをわかっているわけではないのです。
人間関係で馬鹿にされたり差別されたりする場合には、「これは差別でしょう?」と相手に一言いっても問題ありません。
差別された側が黙って耐えるべきということはないのです。しかし、それ以上「差別するな」などと迫る必要はありません。相手を諭そうとはしないことです。真理の見方からすれば、生命の言動は基本的に自由なので、差別するかしないかは、それぞれ個人の判断に委ねられます。また、その差別発言を受け取るか受け取らないかもまた、個人が選択できるのです。
差別を受けたときに苦しみが大きくなるのは、自分自身の自我の働きのせいです。
「差別してはならない」「人間は平等である」という自分の哲学を相手に押し付けようとするとき、それと反対の現実に直面して苦しみが生まれるのです。仮に相手が「あなたは本当に馬鹿だな」と言ったとしても、自分が「ああ、そうですか」と冷静に反応すれば、それで話は終わります。相手はそれ以上、話を続けることが難しくなります。相手の意見を変えようとしないでも、自分は自分の世界を楽しむことができるのです。
「馬鹿」と言われて落ち込むか、またはそんなことを意に介さずに楽しむか、それは自分の自由です。
自分の思考や行動は、自分自身で選択できます。自分が楽しく過ごすのか、落ち込んでしまうのか、どちらを選ぶかということは個人の権利です。他人はあなたに嫌がらせをすることはできても、それに対して、あなたが何を思うか、どう反応するかを決定することはできません。あなた自身が、自分の幸せを決めているのですから。自分で決めた幸せならば、他人に奪われることは決してないのです。(了)
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