ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

パティパダー2024年1月号 智慧の扉 死の準備 A・スマナサーラ

私たちは自分の死に怯え、恐怖や不安を感じます。「死にたくない」と思って怯えているのに、実はこの「死にたくない」という気持ちが生命を生かしているのです。言い換えれば、「呼吸、食事、健康管理、仕事など死なないためにするさまざまな努力によって、私たちは生きていくことができている」ということです。しかし、どんなに頑張ったところで生命は必ず死にます。「死にたくない」というモジュールは、実現不可能なアルゴリズムで出来ているのです。死ぬのが恐ろしくて生き続けようと頑張っていますが、自分の死は経験できないからこそ怖い。未知の存在ゆえに、幽霊を恐ろしく感じるのと同じです。仮に幽霊が、世の中でよく知られた生き物の一つであれば、恐怖を感じないでしょう。そのように、自分の死を理解できるアルゴリズムが心に入れば、「どうしても生き続けたい」と思ったり、死を恐れたりすることはなくなります。何事にも執着しなくなります。つまり「覚った」ということになるのです。ただし、このアルゴリズムは自然の流れでは起動しないので、人は修行しなければ覚ることができません。

 

修行方法はいろいろありますが、他の生命の死を観察する「死随観」もその一つです。仏教では命を「強風の中に火のついた蝋燭を置くこと」「水の上に指で線を書くこと」「一本の矢を放つこと」などに喩えます。強風の中の炎も水の上の線も、瞬間で消えてしまいます。矢は放ったら最後どこに落ちるか刺さるかわかりませんが、結局は止まります。「命は儚く、死は確実である」と念じると、「明日まで死なないはずだから明日修行しよう」とは言えなくなるのです。お釈迦様が、「今、修行しなさい(Ajjeva kiccaṃātappaṃ)」と『「日々是好日」偈(Bhaddekaratta gāthā)』で教えているとおりです。

 

命とは死が訪れるまでの営みです。例えば、あなたが一冊の本を開いたとして、その本を読み終えるまで生きていられる保証はありません。200ページある本の5ページのところで死が訪れても、「まだ続きがあるので、ちょっと待ってください」ということは成り立たないのです。死がやって来たら、どんな重要なことをやっていたとしてもそこで強制終了になります。とはいえ、死は怯えるものでも嫌悪するものでもないのです。それは無常なる現象の中の一つに過ぎません。私たちは自分の死を経験できないから、他の生命の死を観察することで無常を観察します。それが自分自身の死の準備にもなるのです。(了)

 

 

※パティパダーは日本テーラワーダ仏教協会の月刊誌です。