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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

修行で滝に打たれたりしないんですか?【八正道-正見】中編

修行で滝に打たれたりしないんですか?【八正道-正見】前編 から続きます)

ま、そういうふうに、今言ったのは難しい方法ですけど、これがややこしいという場合は、一応仏教では別の結論を出してあるんです。

 

例えば、「すべては無常です」。

これ、大変な言葉なんです。瞬間しかないんです。次は別の現象なんです。

ということは、見解は成り立たないんです。

「この人結構きれいですよ」と言っても、瞬間だけ。次変わるんです。

「かなり若い人だよ」というのも、瞬間だけですよ。

 

われわれは、写真撮りますね。写真で撮った顔というのは瞬間の顔であって、自分とは関係ないんです。だからいつでも、写真と本人は違います。だからお見合い写真で判断するとひどい目にあいますね(笑) いろいろ工夫して、その瞬間カッコいいものを撮ってしまうんです。

 

カメラマンが、「ハイ、もうちょっと右、ほんの少し下、いえ、もうちょっと上」とか言いながら照明をあちこちから当てて、「ハイ、そのまま!」と”瞬間”を切り取ってしまいます。でも本人は違います。

だからそういうことを見ても、いかに世の中というのは無常で、条件によってあらわれる幻想・幻覚であるというのが、世の中の事実なんです。

 

そこをわれわれは無視するんです。世界は幻想であることを。平気で無視するんです。

 

例えば写真を持ち歩く場合は、自分が一番カッコいい写真を持ち歩くんです。

 

そういうわけで、どんなものでも、いつでも、世の中は瞬間の出来事で、あらゆる条件によってすぐ変わってしまう。変わることは確実です。

 

そうなってくると、どんな意見も成り立たなくなっちゃうんです。何かにしがみつくということが、できなくなっちゃうんです。

 

正しい見解、「正見」を作りたいと、しかしこの世の中は難しすぎて何もできない、というならば、お釈迦様が提案しています。

「では、すべて無常だとみてください。これから」これが「修行」ですよ。

別に修行するために森に入る必要ないんです。

 

すべて無常ですからね。見るものも、聞くものも、自分の体も、服も、会社の仕事も、何でもかんでも。ああ、無常だ、と。

 

幻想だ、瞬間の出来事だと見てみると、だいたい二、三週間で、恐ろしく信じられないほど頭がよくなっているんです。

心が見る見るうちに自由になっていることがわかるんですよ。

怒ることはできなくなっちゃうわ、嫉妬することはできなくなっちゃうわ、落ち込むことができなくなっちゃうわ、絶望にはならなくなっちゃうわ、悩みが消えてしまうわ、心がきれいになっているんです。

(八正道の)たった一項目だけをやってみても。

 

何で怒るかというと、無常じゃないと勘違いしているからなんです。

なんで嫉妬するのか。成り立たないんですよ、嫉妬することは。

たとえば誰かのことを嫉妬しても、その人は変わるんだから。自分も変わるんだから。「あの人は仕事がよくできて、わたしにはできない」と思って嫉妬する。あり得ないんです。その人もずっと仕事ができるわけじゃない。それは条件の中でうまく行っているだけ。自分に仕事できないことも、ずっとそのままではない。条件の問題です。

条件が良くなって、うまく行っても、自分が仕事できるようになったわけじゃないんです。

 

そうなってくると、嫉妬するっていうことは成り立たなくなっちゃう。

怒る場合も、「これは変わらない」と思って怒るんです。

自分に希望があって、「自分の希望に合わない」と言って怒るんです。だからこれは何でもかんでも無常だから、希望を作れなくなるんですね。そうなってくると、怒れなくなってくるんです。

 

で、人の話に即乗るでしょ。しかし、人の話は成り立たないと知っていたら、乗らないんです。知っていることは分かるんです。「この人はこういうことで、こういうふうに、こういう意見を持っているんだ」とよくわかりますよ。

だからと言って、惹かれてしまって、話に乗るということはないんです。

相手は、「わたしの考え方をわたしよりよくわかっている」と喜ぶだけで、でも相手の意見を受け入れたわけじゃないんです。

 

そういうふうに人生が変わってしまいます。

 

そういうわけで、たった「正見」だけでも無常から理解すると、それで修行なんです。毎日、すべては無常だと見ることで成立します。

 

それはお釈迦様が説かれた「修行」ということなんです。

当然、人は変わりますよ。常に変わっていくんです。変わることは避けられないんです。

 

お釈迦様が提案することは、「どうせ変わるんだから、正しい方向へ変わりなさい」と。

それで変わっていって、「完成~!」というところに行ってしまいます。正しくない道にいる場合は、いくら変わっても「未完全」です。

正しい道に入れば、正しい方向へ変化して、それで終わり、になります。

完成したものはそれ以上は変化しません。

そこが仏道なんです。

 

えー(笑)、何で答えが難しかったかと、質問した方でもよくわからなかったと思いますよ。質問内容を(笑)

 

世間でいう修行とは違います。理性に基づいて、すごく生き楽に生きる方法なんです。ブッダの道はすごく楽しいんです。すごくかっこいいし、クールなんです。みじめじゃないんです。しっかりしている。よく笑って、明るく生きていられます。

 

変なことは何にも言っていないんです。やりにくいこととか、世間に笑われることとか、何一つもないんです。

 

そういうふうなことで、ゆっくりでもいいんですから、やっていってください。

 

仏教の本は、わたしの本だけじゃなくて、普通の固定概念というのはつぶれては行きます。その対立はあります。それは覚悟していかないと。「私の思った通りだ」というのはあり得ないんです(笑)

 

思った通りではなく、違うことを言っています。自分を改めるために仏教の本を読むんです。

今まで考えたことは、根元から崩れていく可能性が結構あります。その時も自分で判断して、どちらが正しいか、どちらに証拠が揃っているのか、で判断すればいいんです。

 (修行で滝に打たれたりしないんですか?【八正道-正見】後編(業について)に続きます)

 

関西定例瞑想会 2008.02.17

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/510540.html 音声ファイル・下→上よりメモしました。

前編を読む⇒ 修行で滝に打たれたりしないんですか?【八正道-正見】前編

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