前回
真理はそういうことです。
仏教では絶対的な神というバケモノ、物の怪を人間の妄想で作るんじゃなくて、本当に絶対的なことを教えたんです。
なんで人間が物の怪を作ったんですかね、神という。
捨てるということが法則であると分からなかったからです。自分では何もできんだから、物の怪を作って、そちらではなんでもできることにした。
神は全知全能だといっても、あなたには何の関係もないでしょう。
放っておきなさい、そういうものは。たとえその物の怪がいたとしても、関係ないんです。自分自身がその全知全能になるわけじゃない。
捨てて得ることをやりたくないから、迷信、占い、信仰、非科学的な、非現実的な、非論理的な、非理性的なものばかりが溢れているんです。
だからと言って法則は変わっていないんです。
迷信に凝り固まった人が、ものすごいものを捨てているんです。自分の生きる自由さえも捨てています。自分から喜んで檻に入って、それからカギを力いっぱい投げ捨てているんです。
だから迷信に固まる人、神を信仰する人であっても、捨てることから逃げられません。何かを捨てて何かを捕まえている。真理を捨てて迷信を得る。両方を両立できません。
たとえば、生命は絶対的神に創造された、という迷信と一緒に、ついでに解脱に達します、というのは成り立ちません。
なぜなら、絶対的神様に生命が作られたならば、解脱っていうことはありえないんです。絶対的なものから脱出できませんから。
捨てて、得る。捨てて、得る。
それだけシンプルに憶えてください。
新しいノートも、そのまま置いておけばきれいだけれど、文字を書くと新しさは損なわれる。しかし、書いて文字を残しておくことができた。
ポストイットも、一枚剥がして使えば一枚なくなるけれど、メモしたものを得たんです。
法則から逃げられますかね?
ポストイットをそのまま保管しておくことと、メモを書いて貼っておくことの両方は成り立たないんです。
外国旅行もしたいけど、金も使いたくない、という両方は成り立ちませんね。
(続きます
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