故山本文緒さんの「日々是作文」というエッセイ集を本屋で見つけました。
今はもうほとんど小説を読まないのですが、「山本文緒」が書いたエッセイは買って読みました。
この「日々是作文」の中で、こんな箇所がありました。
「私は特に売れている作家ではなかった。なのに一番多い時で、月に百通近い手紙が編集部から転送されてきたのだ。(中略)手紙好きの私にはそれが嬉しくて、全部の手紙に目を通し、手書きのペーパーをコピーして返事を出した。」 (p 145「お返事ください」)
私も子供の頃にこの作家さんへ手紙を書き、返事が来たのです。返事の手紙がコピーだったという記憶はないけれど、ただサインのみとかパンフレットのような印刷物の返信ではなく、ちゃんとした【お返事】だったので驚いたし嬉しかった思い出があります。
山本文緒が出した最初の一冊だったと思うのですが、「きらきら星をあげよう」という本がほんとうに好きで勢いあまってファンレターを出したのです。
以来、山本さんが書いた小説は直木賞を受賞する数年前まで読んでいたのではないかと思います。読まなくなったのは日本を離れていたからでしたが、帰国しても昔のように小説を読む日々にはなりませんでした。
余暇に仏教法話を聞いたり瞑想したりすることが多い毎日になってしばらく経ち、ふと本屋の一画に「追悼・山本文緒」と書いてあって、山本さんが亡くなったことを知ったのが昨年秋頃でした。それから最後のエッセイとなった「無人島のふたり」を読みました。
最初期の作品と最後の作品が、奇しくも私の記憶に刻まれることとなりました。
直木賞作家の山本さんにはもしかして不本意かもしれませんが、これまでの条件が重なった結果ということですみません。
結局のところ、私はファンレターの返事をもらったことで、山本文緒という作家自体に執着を持っていたのだと思います。それで小説よりも私生活を切り取ったようなエッセイを好んで選んだのでしょう。
よく考えたら、執着を感じるような、その人のエッセイが読みたいと思わせるような作家はもういないし、これからも出ないでしょう。
法話を聞いたり瞑想修行のあと功徳回向するときに身近な亡くなった方々を思い浮かべるのが習慣ですが、そのメンバーに山本さんも加わるようになりました。まさか面識のない作家さんが功徳回向先の中に入るなんて、手紙の返事をもらった幼かった私も、月に50通もファンレターへ返信をしていた山本さんも、想像もつかなかったはずです。
ところでなぜこんな話を書いたのかというと、「法話を聞いたり瞑想したり、仏道修行をするってどうなん?」「どういう効果があるの?」という疑問に少しでも答えられるのではないかなと思ったからです。
それで回答ですが、過去に執着したものはまだ余韻が残っていて執着を感じます。でも新しい執着は生まれにくいです。つまり人や物事に対して激しいリアクションを取らないのでトラブルが減ります。人間関係では苦手な人は現れますが、年単位でやり過ごしていくうちに異動などで遠ざかったりして問題が氷解します。職場や家庭などの環境もまた然りです。
そして、小説とか読まなくなったらつまらないのでは? というとつまらないことはなく、自己観察の時参考になる分野の本を読んでいます。最近ではこれとか、
これとか、
これとかです。
瞑想したり日常を観察したりする中でのデータと、こういう本のデータとをすり合わせて遊んでいます。以上は個人的ですが回答の一部になります。
仏道修行は最初の数年ちょっと頑張ってみてはどうでしょうか。
法話を聞くのも瞑想するのも体の動きとしては日常の延長で難しくないものですから、すぐにうまくいくのが当然と思ってしまうのが落とし穴だと、法話でもたびたび言われています。