スマナサーラ長老・東京月例講演会「違うって素晴らしい こだわりをなくす智慧の道」2015.07.18
http://www.ustream.tv/recorded/67914135
を聞いたまとめと感想を書きます。縦線部分が講演からの引用です。
結論。
違うって素晴らしいんですよ。なんでわれわれは世の中にあらゆる不平不満を持っているんですかね。世界は違うものであると理解できないんですね。自分のプログラムにすべて合わせようとしているんです。
おお、最初に結論からスタート。
二人が喧嘩したら、お互いが、「相手が悪い。わたしの言うとおりに信じなさい、やりなさい」という態度なんですね。これはあり得ないというのが仏教的な立場です。
特に社会に対する問題は、違いを認めないから起こる問題です。違いを認めたら、穏やかで楽しい世界が直ちに現れます。
「違いを認めないから起こる問題」。確かにその通りです。それでは、具体的にどう行動に反映させればいいのでしょうか?
個人で悩んでいる悩みはなんなのか?
「こうであるべき」と思うことが、その通りになっていないことに対する悩みです。
「怒りっぽい性格」は、自我を張っているから怒りっぽいんです。「わたしはそういう性格だ」とほかの人との違いをみればいい。そうすると自分のこころが落ち着きいていきます。だからといって、怒ることはよくないですよ。
われわれは、違うって素晴らしいとみる能力を育てるにはどうしたらいいか? をみてみましょう。
はい、はい。(前のめり)
「差別・区別・分別」
その三つを勉強しましょう。
7月の「法話と実践会」でもお話があったアレですね!
⇒覚りの世界「差別・区別・分別・そしてそれらを乗り越えた境地」シリーズ全4回
区別は、それぞれの現象が違うことを発見する能力です。
われわれが育てるべきは、区別能力です。
どの生命にも、生きるための区別能力が生まれつきインストールされています。インストールするのはそれぞれの業です。
たとえば、あるこころに、犬の区別能力がインストールされると、その生命は犬になります。それぞれの肉体を死ぬまで維持管理できる手当をもらっています。それを業と言うんです。
欲界にいる生命には、生まれた時の区別能力を広げられる可能性がります。しかしリミットがあります。
ワンポイント。どのくらいすごい芸ができる犬であっても、1+1は分かりません。ときどき犬も人間の言葉をしゃべろうとするが、できません。リミットがあるんです。
リミット……。なるほど。
高度な数学、いろいろ外国語など、学んだ内容ではなく、実際の世界で役に立つのはそのとき養った区別能力です。数学者は養った区別能力で優秀な音楽家にもなっている例もあります。
区別能力とは、違いを知ることなんです。世の中が違うものでできていないならば、知識はあり得ないんです。どんな現象も互い違いだから、そこを観察すれば、知識が増えるチャンスなんです。
「違い」とは面白いだけじゃなくて、それが現実です。それに闘うんじゃなくて、それを学んで頭のいい人間になる。しかし、わたしたちにはリミットがあります。この会場の椅子の違いを区別することはできません。犬にはできる可能性があります。
わたしたちは水は全部同じだと思っている。本当は一滴一滴、違うもの。
区別能力を高めていくことはヴィパッサナー冥想に通じる道なんですね。
われわれの区別能力がひどい場合は、差別にいきます。違うものを軽蔑・侮辱する。差別とは罪です。区別に自分の判断をいれるんです。物事に良い・悪い、の判断をいれることはできません。物事は違うものだからです。
差別は犯罪で罪です。
区別能力の劣化が差別。ここで感情による自己汚染がなされると差別になるということですね。 そうか、差別はまず最初に自分を害するんだ。
三番目の言葉は、分別。
選ぶこと。選ぶ能力が分別です。区別がなければ分別は成り立たない。
わかりやすく言えば、道徳の世界、倫理世界です。
そのためにも「物は違う」ではなければ成り立ちません。
「物惜しみ」と「寄付・お布施」ではこころの働きが違います。
なぜその違いがあるのか? 結局は人間は「幸福になりたい、生きていきたい」なんです。それに合わせて倫理が成り立ってくるんですね。
仏教では「幸福になる」目的で生きてくださいと言います。
「生きていきたい、死にたくない」というのは、井戸に水を入れるような作業です。意味がないんです。
意味がないなら呆けて生きていく? そうはしません。「幸福に生きていく」とテーマを変えれば、素晴らしい世界が現れます。
わたしたちが「幸福に生きたい」と目的を変える。すると分別能力が必要になってきます。何をすれば幸福になるか、何をすれば不幸になるかと理解できてきます。
分別は、生命が幸福になるためのものです。
しゃべるべき言葉としゃべるべきでない言葉。どんなときにどんな言葉を選ぶのか。
きちんと区別したら、分別でさらにブラッシュアップしないといけないんですね。区別されたものを、より目の細かい分別という網にかけていく、と。
世界は違う、というテーマに戻ってみましょう。
正しい知識とは何なのか? 間違っている知識とは何なのか?
知識とは区別能力です。
知識は役にも立つし毒にもなる。なぜか? 包丁は凶器にもなる、道具にもなる。この差はどこにある? 鉄砲は道具になりません。人(生命)殺しのためです。
マッチは? 役にも立つし火事の元にもなる。
どこにこの差が生まれるのか?
答えは自我です。「わたし」なんです。これが入っちゃうと、知識をねつ造する。わたしの気持ちに知識を変えようとする、テクノロジーを変えようとする。
腹が立った。自分はマッチを持っている。灯油を買ったりして、組み合わせて、家に放火する。その人は放火するために知識を、区別能力を使ったんです。この能力はとんでもない結果になった。なぜ? 自我が入ったんです。
勉強できる子もできない子もいる。勉強しても知識が育たない子、軽々と知識が育つ子。自我が割り込むと、先へ進まない。自我があると足し算引き算で十分だと思う。もっと自我があると電卓があるから十分だと思う。
勉強できる子は、自分の役に立つかどうかではなくて、差を探していく。それを発見するたびに面白くなる。
うーん、これは子供たちが「勉強したくない、なんの役に立つんだ」と、もし言い始めたら教えてあげたいな。
ポイントは「自我を張るかどうか」です。
勉強したければ、知識を拡大したければ、「自我を捨てる」ことです。自我があると、知識をねつ造してしまいます。
人間の知識能力にはロックがかかっていないんです。面白いことに、このロックを人間が外さないんです。自分が生きるために、儲かるために、ライバルに勝つために、長生きするために、学びまくるんです。研究しまくるんです。犬の次元より進んでないんです。
だから人間には、ここまで科学が進んでいるのに、生きるとは何かがわからない。こころとは何かとわからない。人間として閉じ込めるためにしか学ばないんです。
自我を捨てて幸福になりたいと、勉強していくといくらでも勉強できます。知識範囲がキリがなく拡大します。
世の中はそれぞれが違うもので構成されている。それが、おもしろい。違うことが困るというのは、自我があるから。自分で世の中のことを管理しようとしている。法則を犯しています。罪を犯したら裁かれます。
わたしたちの体も右と左で違う。細胞も一個一個違う。細胞の一個一個に差があったからこそ、この命でしょう。
違いを認めて、お互い、共存・ネットワークを持つ。
仏教はすべて無常と言うことで教えています。すべて無常、ということは一個一個が違う。仏教では、「戻す」という言葉はないんです。先に回転する。レボリューションなんです。先へ回転していく。
わたしたちは一個の細胞で生まれて、古い細胞は死んで新しい細胞が生まれていく。同じシーンは人生に二度ない。同じ人には二度と会えない。同じ食べ物を二回食べられません。
一切は一回きりです。回転して変化していく。止まりません。
そこで、何か嫌なことがありますか? 何に執着するのか? 一回きりなのに。
もう二度と出会えませんよ。執着する? あの人が良い・悪いの判断ができる?
違いを知るとは、無常を知ること。そうすると、あの分別もいらなくなっちゃうんです。成り立たなくなっちゃうんです。区別も成り立たないんです。何も成り立たない。
だったらそのこころは何なのか? なんなのかと言う言葉もないんです。それに解脱と言うんです。涅槃と言うんです。
これが良い、これが悪いと言えないんです。瞬間のことだからね。「良い・悪い」を言うために、「わたし」がいなくちゃでしょう。次の瞬間で別なわたしですからね。
無常をしっちゃうと、瞬間瞬間、認識するんだけど、すべてパス。差別は当然ない、区別もない、分別もない、全部乗り越えています。
いつでもその世界でいられないから、当然、お釈迦様でも区別世界に戻ります。お釈迦様には分別世界に入りません。悪いことをしませんから。
最後のポイント。
われわれは区別能力がインストールされて生まれてくる。それは各生命によって違う。業が、区別能力を自分バージョンのものをインストールしています。だから、すべての生命は違います。同じ生命は存在しません。
もし人間が、自分をモデルにして差別するなら、こんなに危険な罪があると思いますか?
修行しても絶ちがたいものが自我。
違いを楽しみましょう。
(法話おわり)
この法話の直後にあった質疑応答の一部
がん治療で、西洋医学と東洋医学、仏教的にはどちらが良いでしょうか?
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