授業参観などを見に行くと、子供たちの発表する声が小さい、ということがよくある。
それと似ていることで、授業中にあまり手を挙げない子もいる。
なぜ手を挙げないかと言えば、単に答えがわからないということも当然あるし、自分の答えはあるのだけれど自信がないという理由もある。
自分の答えが間違っているかもしれない。間違っていたら恥ずかしい、という怖れ。
でもそれって、子供だけのことだろうか。
ときどきわたしは、お坊様に食事のお布施をしている。
作った食事はまず、お釈迦様にお供えする。
ロウソクに火をつけて、線香も焚く。
それから、一口サイズに盛り付けたお釈迦様用の食事を、仏像の前に置く。
お坊様の先導で礼拝の文、三帰依、五戒の文などを唱える。
普段は大勢で唱えるのに、お布施する人が自分だけだったら、一人で唱えなければいけない。
数か月前のこと。
大勢で唱えるときは何の問題もないのに、自分一人の声になった途端、あれあれっ?となった。口ごもったり順番を間違えたり。
「なぜ、慣れている文言なのに、こんなに簡単なのに?」と、ちょっと恥ずかしくなった。
いや実は、ちょっとどころではない。ものすごく恥ずかしかった。
それ以降、食事のお布施で経を唱えるとき、妙に緊張してしまう。もう絶対に間違えたくない。けれどもそう思えば思うほど、すんなり言えなくなる。
子供たちに、「間違ってでもいいから、手を挙げなさい。はっきり大きな声で発表しなさい」なんてよく言えたこと。
そんなことを、食事のお布施の後に、お坊様に話してみた。
即座に、「そんなこと気にしなくていい。わたしたちも採点をつけているわけじゃないんだし、間違ってもまったく気にしない」と。
そのうえ、ご自身が大事な場面でお経を間違えちゃったエピソードまでしてくださった。
それから、「お布施は喜びでするものです。それが功徳ということです。それに比べたら、礼拝文などを唱えることは、いわばオプションです。本来の目的を取り違えてはいけません」と言われた。ハッとした。
もっと正確にそのときの心情を表すと、「あああぁぁぁ、そうだったぁぁぁ!」と、のけ反る感じだった。
食事のお布施だけではなくて、品物のお布施でも、しきたり習慣や手続き、品物選びなどいろいろと考えを巡らせていくうちに、だんだん軌道がずれてくる。
イライラ・心配・欲が出てきてしまうのだ。
生存欲にあらがって、せっかくお布施するのだから、ここはもう一歩頑張って、「喜び」でこころを満たそう。
そう考えると、ヴィパッサナーや慈悲の冥想と同じく、お布施も、激しい逆流をさかのぼって漕いでいく一艘のカヌーのように思えてくる。
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Hassiumさんから、こちらの法話を挙げていただきました。ありがとうございます☺
「こころが栄養に依存する」
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/04/18/050000
あ、これは面白い法話でしたね!
この法話の、「慈しみ・やさしさ・喜びを栄養にする生命体が来て応援するんですね。そちらも栽培するんですよ。」というところをイメージすると、コビトがせっせと種を植えたり水をあげたりしているように思えてかわいらしく感じるのですが、皆さまはいかがでしょうか。
「栄養」については、ほかにも、こちらのシリーズ(全10回)があります。
食事で気をつけること(1) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
また、こちらでも、物質的栄養と、精神的栄養の二つについてお話されています。
栄養のとり方 - 束縛の多い世の中で自由に生きる(10) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
初期仏教月例講演会では、「ブッダの栄養学」(2016.07.02)というタイトルで講演なさっていました。
(現在、この講演会DVDは頒布されています)
そこで「識食(しきじき)」というキーワードが出てきて、それが3か月後の月例講演会にテーマとして引き継がれました。
「識の理解」スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会 2016.10.01 - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
(こちらの講演会DVDも頒布中です)
この「識」の法話を踏まえたうえで、現在のスマナサーラ長老の経典解説を聴くとよりわかりやすいと思います。
9月のパーリ経典解説講座から継続して扱われているスッタニパータは、プロ(仙人)同士の解脱についての対話の章です。
識についての深い理解が、経典により近づく手がかりになるのでは……。😊