(寂しい(6)怒りの一人ぼっち、慈悲の一人ぼっち より続きます)
わたしたちはどうすればいいのか。
独立は成り立たない。だから自我張っちゃうと失敗する。いつでも世界は契約です。契約でお互い結ばれていますからね。自分が約束した条件は真面目にこなす。その分自分の自我が働かなくなりますよ。自分の義務を果たしたなら、相手も義務を果たすことを期待するだけで。
そういうふうに生活するしかないんです。自分の義務を果たす。
だから、わたしはわたしのことをやったんだから、あんたはあんたのことをやってください、と言うのは構わないんだけど、仏教徒は、自分の義務だけ果たして黙っているんです。
相手が自分の義務を果たすか果たさないかは相手の責任であって、どうしても義務を果たしてくれない場合は、ちょこっと思い出させてあげたりしたっても、それ以上はいかないんです。そこはなくても、一応、世の中では寂しいというのは当然あるし、エゴっていうのは当然あるし、人に頼らなくちゃいけないし。人に、他の生命に、頼らなくちゃいけないし。それが、自我張っちゃうとダメになっちゃうんですね。
友達が欲しいと思っている人が、わがままで「俺がえらい」と思っていたら一人も寄り付かないでしょう。
猫と仲良くすれば寂しくないでしょう。それなら猫の機嫌を取ってあげないと。「かわいい、かわいい。なんてかわいいんでしょうか」と撫でてあげると、猫もちょっと遊んでくれます。
犬がいれば寂しくないなーと思ったら、犬の奴隷になるしかないんです。犬の機嫌を取ってあげれば、犬もこちらの機嫌を取ってくれる。相手が動物だから約束破ることは大体ないんですね。人間の場合は結構破るんですね。
狸とかね。人間を見たら逃げちゃうでしょう。しかしエサを置いておいてみてください。それからエサをくれる人のことを待っているんです。逃げないんです。他の人が来るとささっと逃げますけど、エサをくれる人が来ても逃げない。自分の子供が生まれたら子供まで連れてきて見せたりして、結構頑張っていますよ、野生の狸であっても。
だから動物は、先にこちらが義務を果たすと、向こうも義務を果たしますが、人間の場合は、なんか、思い出させてあげないと。法律で決めてあげないと。契約の場合は法律でしょう。お金が無くなったところで、へっちゃらで借金するんですよ。それから、これを払わないで逃げる方法がないのかと考えちゃうんですね。だから、厳しい決まりを作らないといけなくなります。
今、法律も変わって、ローンの場合も借りられる上限が年収によって決まったんですね。わたしもいろいろクレジットカードを持っていますけどね。ローンの場合は上限が決まっています。一円も借りませんから関係ないんですけど。お金がなかったら買わない、と言うのはあたりまえでしょう。借金するのは馬鹿ですからね。しかし、それはそれぞれの生き方ですけどね。
一部の人はローンで買っても返済しないんですね。払うお金がないんですよ。それも約束を破っているでしょう。「いえ、わたしは払いたくないわけじゃなくて、金がないだけだ」と、そんなこと言っても、だったら、なんでローンしたのかい、と聞きたくなるしね。それで法律で借りられるリミットを決めたりしてね。人間はいかに約束を破るのか、ということですよ。
だから、契約を守るならば、警察もいらなくなるし、法律もいらなくなります。膨大な法律があるっていうことは、いかに人間が約束を破るのかということです。
そういうわけで、仏教的な答えっていうのは、われわれは寂しいし、寂しさを紛らわすためにいろんなものに依存しなくちゃいけないし、それだから、自分の義務を先に果たして、そうすれば相手も義務を果たしてくれるだろうと待っている。やっぱり、契約の人生をやるしかないです。
それでも嫌だなぁと思うならば、煩悩をなくすしかないです。
一応、お釈迦様は、二つの解決策を教えられていますね。
社会人として契約を守って生活すること。
それにしたっても寂しさは完璧には消えませんね。だから、冥想を実践してこころの煩悩をなくすこと。そうすると本格的に自由になるんです。
それで、独立、ということになるんです。
独立とは解脱者だけの特権。解脱に達していない人は独立できません。
それで、寂しいということを倒すんです。これが苦しいんですよ。生きる上で。だから「苦」でもあります。
(おわり)
関西定例冥想会 2010.12.12
http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1294974.html からメモしました。
「寂しい」シリーズ全7回